医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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河野和彦博士は認知症は治せるとコウノメソッドを提唱した。そして生井久美子氏は「ルポ 希望の人々 ここまできた認知症の当事者発信」を先日上梓した。認知症患者も自身の勇気ある発言により、周囲の理解が進み、認知症患者が広く社会から受け入れられるようになったと、認知症患者を「希望の人々」と呼び、認知症患者の生きやすい社会ができあがりつつあるとレポートされた。実は読み始めたが、以前クリスティーン・ボーデン著「私は誰になっていくの?アルツハイマー患者からみた世界」で、この本は本当の認知症患者の書いた著作ではない(2,3年前それについて詳細に論じた。Blogに残してある)と断じておいた内容の焼き直しで、違う違うという思いばかりが先だって、読み進められない。私の知識不足なのであろう。
いずれにせよわが国では認知症の早期診断や早期治療がうまくいっていて、認知症も克服する方法があるということなので、何もへぼ医者が認知症医療について憂える必要がないらしい。学会からも新しい「認知症ガイドライン第二版」(未読)が出された。認知症患者よ!憂える必要はないということにならないから、私のような小心者は右往左往している。認知症現場は魑魅魍魎の世界のような気がする。
かって書いた原稿と同じことを繰り返すほどボケてしまった。コウノメソッドを書き終えて一日も早く認知症と手を切りたい。嗚呼!
2014年7月5日 Bog再録
認知症を物忘れの病気と考えて、50歳くらいから始まる「あれあれ」、「これこれ」と固有名詞が出なかったり、その場に出かけて何をするのか「ど忘れ」したりして悶々とする記憶障害をADの初期症状と誤解している人がいる。プライドの高い人は加齢によって出現してくる記憶障害、いや記憶を「想起する過程」の一過性の障害をADと自己診断して医療機関をショッピングする。
その代表的な例が「私は誰になっていくの?アルツハイマー病者から見た世界」の著者であるクリスティーン・ボーデン氏である。彼女は「前頭側頭葉型認知症」であるが当初、ADと誤診されていた。ADではない根拠をBLOGで以前に論じておいた。しかし彼女はADと前頭側頭葉認知症の違いを理解しないまま、日常生活の不都合はすべて認知障害からくると上記の本を執筆した。
前頭側頭葉型認知症は前頭葉の理性にかかわる部分が障害されて人格が変わり、時には側頭葉の言語中枢が侵されて失語症を発症するのが特徴である。前頭側頭葉型認知症との診断も疑わしいことも考察しておいた。
正確には著書名は「アルツハイマー病者から見た世界」ではなく、「前頭側頭葉型認知症病者の見た世界」あるいは「初老期うつ病患者の見た世界」とするべきであるが、偽りの看板のままで今でも版を重ねている。認知症患者がどのような困難と闘っているかを患者自身の訴えから読み取ることができる、また認知症患者でも対応によっては病状を長く安定させることができる参考書として誤用されている。
この本と、抗認知症薬の薬効解説に熱心な権威が現在の認知症医療現場を荒廃させていると思う。現場の問題点を誠実に取材しないまま、認知症は早期診断と早期治療で何とかなるとのマスメディアの煽り報道がこの荒廃を一層加速させている。診断や治療のところに医療マフィアに指示された記載があることは、わかる人にははっきりと読み取れる。気が付いていないのは国民の健康を憂いているふりをしているジャーナリストだけである。見苦しい。
長く認知症医療に携わっている著明な認知症専門医も、固有名詞が出ないなどの加齢に際して一般的にみられる記憶障害の延長線上にADがあり、そういう意味ではすべての方がADの予備軍だと公共放送(初期認知症と診断されたら・・クローズアップ現代6月19日)で解説していた。
実際患者を診ていると、ADの記憶障害は加齢に際して見られる記憶障害と全く異なっているということがわかるというのがわたしの現時点での考えである。
ADは固有名詞が出てこないのではない。体験したこと全体を忘れてしまう。
朝食の内容を忘れるのではなく、朝食をとったという体験全体を忘れる。問診をしていると、突然話がかみ合わなくなってぎょっとする。あれでしょう、これでしょうとヒントを出すがそれでは済まない。加齢の場合は、ヒントから思い出されたり、逆にこちらが間違った答えを出すと、そうではないとはっきりいわれたりするのと全く様相が違う。わたしはそれを「体験記憶障害」と呼んでいる。
あーそうか、昨日奥さんを見舞いに行ったのを記憶していなくて、なぜ今奥さんがここにいないのかを繰り返し尋ねているのかに気が付いて、初めて彼の記憶障害の本質が見えてくる。奥さんは胸部動脈瘤の手術のために某病院に入院している。繰り返し説明して納得してくれたと思ってしばらくたつと、なぜ今女房がいないのだと真剣に問う。
思い出せないのではなく、体験したことを新たに記憶できなくて、本来あるべき記憶がないので同じ疑問がわきあがってくるのであろう。記憶障害というよりは、記憶を作る「出来事を蓄えるところ」の異常であろう。例えば海馬の機能不全。
聞きかじりであるが脳科学の進歩は近年著しい。加齢による記憶障害と、ADによる記憶障害の違いを進歩した脳科学の成果に照らし合わせて整理すれば、わたしが「記憶を想起する過程の障害」あるいは「体験記憶貯留障害」と分けて書いている障害の違いを素人の方にももっと明快に説明できるようになると思う。そのような試みを寡聞にして知らない。現場の医師はその知識がないと困るはずだが。
患者を十分丁寧に診察していないのであろう。嗚呼!
そのせいなのであろう。認知症の初期の段階は病識があるとの仮定で、認知症の自己判定の「初期段階の危険度チェック」(週刊朝日7・4月号)が作られている。心配しなければー病識がなければー、危険度チェックに興味も持たない。
質問票には加齢で見られる記憶障害に関する問いが多く含まれている。プライドの高い50代くらいの人がこの質問票で真面目に自己チェックすれば、ADの疑いあると信じ込まれる可能性が高い。
いろいろあっちに行ったりこっちに言ったりしてしまう。今回はAD患者の病識の欠如についての紹介であった。
あれあれ、これこれと思い出せない加齢に伴う記憶障害がある人は悶々としているのに比べると、AD患者が思い出せないといって頭を抱えることは全くない。思い出すべき記憶が頭に刻まれていないので、思い出そうと努力をすることもない。当然であるがあれあれ、これこれということもない。
新しい体験が頭の中で記憶されないので、本人は忘れていることを自覚できないのであろう。病識の欠如である。
病識の欠如はADに特徴的であると思う。なぜ自分は今診察を受けているのかと患者から問われることは稀ではない。「頭がおかしいから、診察している」―アルツハイマの疑いがあるとは決して言わないーとわたしははっきりいうが、理解されているのかどうか知る由もない。
頭のどこが悪いのかという会話に進んでいったり、ショックを受けて頭を抱え込まれたりすることはない。「わたしがぼけている・・・」と激怒される方もいる。次回の「取り繕い」のところでADのもう一つの特徴を紹介する。
繰り返すが記憶していないことを思い出せないのではなく、記憶がないからないのである。
わたしがADに特徴的であると考える病識の欠如も病状は進行したときにだけ見られると主張する専門医も多い。
実際、初期の段階ではAD患者自身で自分の認知障害の程度を判定できると名医はいう。病識があるということであろう。病気と思っていないものが、病気かどうか自己判定をすることはない。
その背景を専門医の多くは、初期にある病識が病状の進展につれて失われていくことを挙げられる。病識が失われる時期はいつで、どのような病変が起こればそのような事態が起こるかについての説明は全くない。病気かなと思っていたのが、いつの時点で自分は病気ではないと確信されるようになるのか。実にアバウトな臨床経過観察からの手引きである。
自己判定して受診した患者は大抵ADではなくて、病識がなくて家族に伴われて受診した患者の中にADが認められるというのが認知症臨床の現場の常識である。
しかし45歳で若年性ADと診断されて、52歳で家族の同伴なしで山陰の某大学でAD臨床で虚名の高いU教授が、うれしそうにADと診断している光景を公共放送が流していた(同上)。
病識があって心配で山陰まで出かけたのであろう。診断後は彼女は、病識をもってAD患者の思いを訴えるための活動に従事していることが紹介されていた。狐につままれた。あったとしても、極めて特殊な例である。わたしには第二のボーデン氏としか見えなかった。抗認知薬の広告塔にならないことを祈る。
NHKも彼女が今後どのような経過をとるかを報告する義務があるであろう。ADがどういう病であるかを私たちが知って認知症患者を地域で引き受けなければならない。公共放送が事実に反した報道で、認知症現場を引っ掻き回してはならない。
初期には病識を持っているのでADの自己診断のための「認知症初期症状11質問票」(同上)までが作成されている。この質問票にはADに特徴的な記憶障害、論理的思考の低下、遂行機能の低下などを判定する質問が要領よく並べてある。
この検査でADの疑いがありと診断された患者はADの可能性が高いと思う。ただこのような障害が認められる患者が、自分から初期診断に取り組むというのは、私の貧しい臨床経験からどうしても納得できない。これらの異常があればすでに病識は失われているのが一般的である。
病状の進行とともに当初あった病識が失われていくと権威は解説する。よくわかる説明ではあるがー患者に接していなかったらその通りと納得していたであろうー、身内の方がおかしいと感じた発症当初でも、患者自身には病識がなくて困り果てたと訴えられる場合ばかりである。とんちんかんなことをしながら「俺おかしいか」と冷静に自己判断をしている例にお目にかかったことがない。わたしが診ている患者と権威たちが見ている患者の構成に違いがあるのであろう。
初期の段階では病識があると主張する専門医はどのステージに至ると病識が失われるのか、もっと丁寧な精神病理学的な機序を説明する必要があるであろう。同時に脳でどのような病変がある場合には病識が失われるかについてとの客観的な証拠を示す義務があるであろう。認知症臨床はあまりにも杜撰である。
繰り返すが固有名詞の物忘れがどんどん悪化して、病識のない体験記憶障害に至るとはとても思われない。わかりやすい説明ではあるが。
病識がなぜ欠如するかについて、精神科医から精神病理学的な考察や、神経内科医からこの部位の異常に由来するかを是非聞きたいと思う。そうでないと現場は荒廃する。
この辺りを整理しないで急いで早期診断法を普及させると一般医家はこらばぬ先に杖とばかりに、ADを過剰に診断すると思う。患者もそのほうを喜ぶから大変である。
素人の方も根拠のないことでADと自己診断してしまうであろう。その隙間を製薬会社が狙っていることはいうまでもない。ADでない人に抗認知薬を投与すれば効果がある効果があると囃し立てることができる。
ADでは初期では病識があるという専門医もいれば、ADではかなり早期から病識が失われるという認知症に携わる一般医家もいる。どちらが正しいか是非、多くの権威たちで議論をして結論を出していただきたい。すでに結論が出ているのか?
ADはかなり早期の段階でも病識がないことが特徴的であることをはっきり言うことがADノイローゼ患者を防いだり、ADの過剰診断を防ぐ第一歩である。そういうことを積み上げることで初めて成果の上がる認知症対策がわが国でできあがっていくであろう。

by rr4546 | 2017-02-17 11:20 | 医療関係 | Comments(0)