医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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<   2014年 07月 ( 3 )   > この月の画像一覧

病を克服するために人類は多大の労力を払ってきた。歩く美術館ともいわれる山鉾が、京都の中心街をねり歩く今行われている祇園祭も、もとをただせば、梅雨のあとの疫病から逃れるために町衆が祈りを込めて作りあげたお祭りである。
京都の有名な多くの古刹のご本尊は薬師如来である。昔の人は神仏への祈りで病苦からの解放を願った。
現代は医療の万能を信じて、早期診断・早期治療を念仏のように唱えて病苦の克服に励んでいる。多くの成果が得られ、平均寿命は延びた。わたしが医師になってからも、手の施しようがなかった病がいくつも克服され、自身は何も貢献できなかったが、多くの難病が完全治癒に至っていることに感動している。
早期診断は今や予防医学にとって代わろうとしている。
臨床医学分野のtop leaderで、来年春京都で行われる医学会総会の会頭を務められるI先生は、弟子が主催した2,3年前の内科学会総会でナチス時代に占領されたオランダの例を持ち出し、「早期診断では病は克服できない。胎児のときから適切な医学的介入をして初めて人間は天寿を全うできる」と予防医学の到来を告げられた。
ナチス占領下のオランダは食糧事情が悪く、その時代の胎児は成人後、成人病をはじめ多くの疾患にかかり短命であった。
これからは早期診断ではなく早期予防に力を注がねばならない。医療の力に対する過剰な自負には負けそうであった。多くの会員は頷いておられたが、方向は間違っていないが、そこまで医療を信頼して明るい未来を語れるほど、医療は万能だろうかというのが高齢者疾患を診ている私の正直な感想であった。
前置きが長くなったが、「認知症」に戻らなければならない。国、認知症の権威そしてマスメディアも早期診断・早期治療そして予防に力を注ぐことが認知症克服の最善な道だと信じて、奮闘している。先日の公共放送では予防、早期診断そしてプレタール(シロスタゾール)を飲み、適切な介助を行えば、認知症など怖くないと出演者は笑って語り合っていた。ためしてガッテンでは心房細動を取り上げる。知っている人は笑っている。どこまで付き合い続けるつもりなのであろうか。
これまた寄り道にそれるが、プレタールはc-AMPを上昇させて血小板機能を抑制し、血管平滑筋に働いて血管を拡張させて、脳梗塞の再発防止や閉塞性動脈硬化症の血流改善のために投与される古くからある薬である。
アミロイドβ代謝とc-AMPの関係について研究された成果を知らない。アミロイドβを除去しても認知症は進むというのが現在の見解。プレタールを使った経験から言えば、脳血管拡張作用と血液サラサラ効果によって、海馬などの萎縮した脳細胞により多くの血液が送り込まれ、脳機能が改善したのではないかと推察している。超高齢者の認知症は病理学的所見からADに分類されるが、臨床的特徴から脳血管性が主流だとわたしは考えている。素人のカンではあるが。血管拡張作用があるプレタールが効いたというのも、超高齢者のボケは、加齢により細くなった血管が脳細胞に十分血液を送り込めなくて脳細胞の働きが低下した脳血管性であることを示す一つの証拠ではないかと勝手に考えている。新しい研究成果を待ちたい。
古典的な病を克服した、予防、早期診断、早期治療そして根治療法の実施というアプローチでは、認知症患者が過剰診断されたり、無意味な投薬治療をされたり、本来受けるべき対応がおろそかにされたり、根拠のない予防策が推奨されたりして、患者に多くの不利益をもたらすのではないかとささやかな経験からわたしは危惧している。
「Alzheimer病(AD)と診断したら、アリセプトを処方するだけであとは何もすることがない」と少なからずの友人は認知症医療に興味を示さない。おかげさまで元気になりましたともいわれない。何か変わったことはありませんかとしか聞けない。副作用の出現を問診するだけである。効果がありましたかと口が裂けても言えない。
アリセプトの処方をしているだけではーいや多くの実地医家はそうしているー、認知症医療に携わる医師は、患者をますます厄介者あるいは金のなる木とするであろう。残念ではあるがこれが実態である。
そこで何の反響もないがあーでもない、こーでもないとBLOGで問題点を指摘している。
偶然、私と同じ問題意識をもって、認知症医療に力を注いでいる先生のご本にお会いした。最前線で活躍しておられる上田諭先生の「治さなくてもよい 認知症」という本である。友人O兄から「孤高のメス 遥かなる峰」を買うように指示があり久しぶりに書店に出かけて、上田先生のご本を手に入れた。O君の本も帯には今は時めく心臓外科医天野篤博士が永遠のライバルは当麻鉄彦(孤高のメスの主人公)であると推薦している。あらゆる情熱をささげ獅子奮迅の活躍をした外科医としてのrealなメモランダムとして読み進めている。
「ADの発症の機序についてもまだ仮説段階、軽度認知障害からAD発症に至る臨床経過も人さまざま、認知症の薬物療法は効果を実感するには程遠い。しかし全例が人物認識や言語的コミュニケーションが障害され、食事、排せつ、入浴などの基本的日常動作が障害されて確実に死に至る。癌のように早期診断がうまくいけば完全治癒が期待できる疾患とはADは全く性格を異にする」。このことを肝に銘じてAD対策を考えなければならない。過去の成功体験とは違うアプローチが求められる。
わが国には「頑張らない」という厭世的だが、広く人々に受け入れられている人生哲学があるではないか。
上田先生は、ありもしない認知症医療にうつつを抜かしているわたしたちに、認知症は治さなくてもよいという、根本的なパラダイムシフトを提案された。是非、認知症患者を持つ家族や、認知症を心配している高齢者に読んでいただきたい。
きっと今抱いている根拠のない希望より、地に足を着けた知恵を学ぶことができるであろう。早期診断、早期治療という威勢のいい掛け声に比べて、「治さなくてもよい」は形勢が悪いが。現状ではこれが最善であろう。
しかし偉い先生は予防や治療の有効性を叫び続けるであろう。仕方がない、それが彼らの仕事だから。虚しい。
わたしに言わせれば「認知症は治らない」―医療は全能であるとの立場からは許されないーという現実を受け止めて、認知症と取り組めば、必ず認知症を克服ー新しい形ではあるがーする道が見えてくるということを上田先生は別な言葉で語られたと勝手に理解した。
先生の考え方は、加齢というすべての人が避けがたい肉体的・精神的な障害に苦しんでいる人にも極めて益することが多い。
次回は先生が提案することでわたしたちが知っておくべき重要な点を紹介したい。そしてわたし自身の考え方も。老人は老人なりにいろいろ考えている。認知症医療の正しい発展のために。
老人にとっては夏の暑さは厳しすぎる。夏休み明けになるか。
いやその前に取り繕いについて日頃感じていることを書く。

by rr4546 | 2014-07-28 13:32 | Comments(0)
大新聞の週刊誌から一流雑誌の週刊誌まで「認知症の早期診断」を特集している。高齢者がそれらのチェックシートを使って、自己判定をしている。無意味なお医者さんごっこがいろいろなところで繰り広げられているのであろう。
乳がん、肺がんあるいは大腸がんなどの固形腫瘍は早期に診断することによって完全な治癒が望めるー早期にがんを見つけても予後改善は望めないと主張する学者もいるー、あるいは高血圧、脂質異常症、糖尿病のような生活習慣病は早期に見つけて適切な対応をすれば、脳出血、脳梗塞、心不全あるいは腎障害などの致命的な合併症を防ぐことが疫学的に示されている。残念なことに認知症は早期に診断しても特別な対応策がない。認知症に対して何をしたらいいかについての筆者の考えはこの論考の最後に述べる。
お医者さんごっこをしていないで早く医療機関を受診しなさいといえないのが現在の認知症医療現場である。一般医家でも典型的なAlzheimer型認知症(AD)を診たことがない人は意外と多いというのが、認知症医療に携わっていて日頃感じていることである。いわんやADと進行性核上性麻痺とを鑑別できるのは、ごく一部の神経内科医だけであろう。
これが現実なのに、自己判定をする資料をマスメディが無責任に垂れ流す。何のために誰のために、どこかおかしい。認知症にまつわることでメディアが取り上げなければならないテーマはいくらでもある。お金もうけにはならないが。テーマについても論考の最後に述べる。皆で考えなければならない難問はいくらでもある。
生半可な知識の氾濫はみんなで真面目に取り組まなければならない認知症対策にとって益することは何もないように思う。
認知症の権威や厚労省の認知症対策部門の人たちは、この状況をどのように理解しているのだろうか。何も発言しないので歓迎するべきものとらえているのだろう。
素人のジャーナリストが、一般医家にも馴染みがない早期診断の方法を解説するのに情熱を傾ける。何を目的としているかを編集者一人ひとりに尋ねてみたい。正直に語ってくれたら驚くべき回答が返ってくる気がする。
建前は早期診断・早期治療という国策の延長線上で奮闘していると答えるであろう。しかし国民の健康志向に媚びてというより、もっと邪悪な意図が隠されているように感ずる。
ADの患者の多くは病識を欠いている。本人がどうもおかしいと感じて受診してADと診断されることは稀であると指摘した。現在でも多くの場合はADの診断は、家人が彼・彼女の以前と違ったcharacterの変化に気が付くのが端緒である(症例から学ぶ高齢者疾患の特徴とその対応:認知症p25~p40)ということは変わらない。
体験したことを覚えていないことがある、同じことを繰り返し聞くようになる、探し物をする、日々の生活の段取りが悪くなる、以前は考えられない仕事上の間違いをする、怒りっぽくなるなど、あれ可笑しいと周囲が感ずることが診断の契機となる。それだけのことに注意をはらうだけでいい素人にあーすればいい、こーすればいいと「認知症初期段階の危険度チェック」などを紹介して医療現場を引っ掻き回す。
早期診断を確立するためにそうそうたる認知症医療の多くの権威たちが協力したJ-ADNI研究でも、被験者の臨床症状を書き換えなければすっきりした診断法ができあがらなかった。
認知症、とくにADは一筋縄では対応できない。典型的なADを除いて、高齢者の認知症の成因はheterogeneityに富むというのが、現段階の私の印象。
すい臓は後腹膜にあって、がんが発生しても初期にはほとんど症状がみられない。体重減少や背部の痛みなど非特異的な症状を自覚して受診したら、すい臓にがんがあったことが稀に見つけられる。すい臓がんの発見がいつも手遅れだからと言って、すい臓がん患者の初期症状を集めてスクリーニングをしてもそれに見合う成果は上がらない、ADの早期診断もそれと同じであろう。
乳房のしこりに気が付いて乳がんや、夜間頻尿や尿線の細さで前立腺がんを疑って自分で受診して早期の発見に結び付くのとわけが違う。
マスメディアの自己判定の熱心な啓もう活動がいったい私たちにどのような恩恵、あるいは悪影響をもたらすかについて、注意深い評価が必要である。

by rr4546 | 2014-07-10 21:23 | 医療関係 | Comments(0)
認知症を物忘れの病気と考えて、50歳くらいから始まる「あれあれ」、「これこれ」と固有名詞が出なかったり、その場に出かけて何をするのか「ど忘れ」したりして悶々とする記憶障害をADの初期症状と誤解している人がいる。プライドの高い人は加齢によって出現してくる記憶障害、いや記憶を「想起する過程」の一過性の障害をADと自己診断して医療機関をショッピングする。
その代表的な例が「私は誰になっていくの?アルツハイマー病者から見た世界」の著者であるクリスティーン・ボーデン氏である。彼女は「前頭側頭葉型認知症」であるが当初、ADと誤診されていた。ADではない根拠をBLOGで以前に論じておいた。しかし彼女はADと前頭側頭葉認知症の違いを理解しないまま、日常生活の不都合はすべて認知障害からくると上記の本を執筆した。
前頭側頭葉型認知症は前頭葉の理性にかかわる部分が障害されて人格が変わり、時には側頭葉の言語中枢が侵されて失語症を発症するのが特徴である。前頭側頭葉型認知症との診断も疑わしいことも考察しておいた。
正確には著書名は「アルツハイマー病者から見た世界」ではなく、「前頭側頭葉型認知症病者の見た世界」あるいは「初老期うつ病患者の見た世界」とするべきであるが、偽りの看板のままで今でも版を重ねている。認知症患者がどのような困難と闘っているかを患者自身の訴えから読み取ることができる、また認知症患者でも対応によっては病状を長く安定させることができる参考書として誤用されている。
この本と、抗認知症薬の薬効解説に熱心な権威が現在の認知症医療現場を荒廃させていると思う。現場の問題点を誠実に取材しないまま、認知症は早期診断と早期治療で何とかなるとのマスメディアの煽り報道がこの荒廃を一層加速させている。診断や治療のところに医療マフィアに指示された記載があることは、わかる人にははっきりと読み取れる。気が付いていないのは国民の健康を憂いているふりをしているジャーナリストだけである。見苦しい。
長く認知症医療に携わっている著明な認知症専門医も、固有名詞が出ないなどの加齢に際して一般的にみられる記憶障害の延長線上にADがあり、そういう意味ではすべての方がADの予備軍だと公共放送(初期認知症と診断されたら・・クローズアップ現代6月19日)で解説していた。
実際患者を診ていると、ADの記憶障害は加齢に際して見られる記憶障害と全く異なっているということがわかるというのがわたしの現時点での考えである。
ADは固有名詞が出てこないのではない。体験したこと全体を忘れてしまう。
朝食の内容を忘れるのではなく、朝食をとったという体験全体を忘れる。問診をしていると、突然話がかみ合わなくなってぎょっとする。あれでしょう、これでしょうとヒントを出すがそれでは済まない。加齢の場合は、ヒントから思い出されたり、逆にこちらが間違った答えを出すと、そうではないとはっきりいわれたりするのと全く様相が違う。わたしはそれを「体験記憶障害」と呼んでいる。
あーそうか、昨日奥さんを見舞いに行ったのを記憶していなくて、なぜ今奥さんがここにいないのかを繰り返し尋ねているのかに気が付いて、初めて彼の記憶障害の本質が見えてくる。奥さんは胸部動脈瘤の手術のために某病院に入院している。繰り返し説明して納得してくれたと思ってしばらくたつと、なぜ今女房がいないのだと真剣に問う。
思い出せないのではなく、体験したことを新たに記憶できなくて、本来あるべき記憶がないので同じ疑問がわきあがってくるのであろう。記憶障害というよりは、記憶を作る「出来事を蓄えるところ」の異常であろう。例えば海馬の機能不全。
聞きかじりであるが脳科学の進歩は近年著しい。加齢による記憶障害と、ADによる記憶障害の違いを進歩した脳科学の成果に照らし合わせて整理すれば、わたしが「記憶を想起する過程の障害」あるいは「体験記憶貯留障害」と分けて書いている障害の違いを素人の方にももっと明快に説明できるようになると思う。そのような試みを寡聞にして知らない。現場の医師はその知識がないと困るはずだが。
患者を十分丁寧に診察していないのであろう。嗚呼!
そのせいなのであろう。認知症の初期の段階は病識があるとの仮定で、認知症の自己判定の「初期段階の危険度チェック」(週刊朝日7・4月号)が作られている。心配しなければー病識がなければー、危険度チェックに興味も持たない。
質問票には加齢で見られる記憶障害に関する問いが多く含まれている。プライドの高い50代くらいの人がこの質問票で真面目に自己チェックすれば、ADの疑いあると信じ込まれる可能性が高い。
いろいろあっちに行ったりこっちに言ったりしてしまう。今回はAD患者の病識の欠如についての紹介であった。
あれあれ、これこれと思い出せない加齢に伴う記憶障害がある人は悶々としているのに比べると、AD患者が思い出せないといって頭を抱えることは全くない。思い出すべき記憶が頭に刻まれていないので、思い出そうと努力をすることもない。当然であるがあれあれ、これこれということもない。
新しい体験が頭の中で記憶されないので、本人は忘れていることを自覚できないのであろう。病識の欠如である。
病識の欠如はADに特徴的であると思う。なぜ自分は今診察を受けているのかと患者から問われることは稀ではない。「頭がおかしいから、診察している」―アルツハイマの疑いがあるとは決して言わないーとわたしははっきりいうが、理解されているのかどうか知る由もない。
頭のどこが悪いのかという会話に進んでいったり、ショックを受けて頭を抱え込まれたりすることはない。「わたしがぼけている・・・」と激怒される方もいる。次回の「取り繕い」のところでADのもう一つの特徴を紹介する。
繰り返すが記憶していないことを思い出せないのではなく、記憶がないからないのである。
わたしがADに特徴的であると考える病識の欠如も病状は進行したときにだけ見られると主張する専門医も多い。
実際、初期の段階ではAD患者自身で自分の認知障害の程度を判定できると名医はいう。病識があるということであろう。病気と思っていないものが、病気かどうか自己判定をすることはない。
その背景を専門医の多くは、初期にある病識が病状の進展につれて失われていくことを挙げられる。病識が失われる時期はいつで、どのような病変が起こればそのような事態が起こるかについての説明は全くない。病気かなと思っていたのが、いつの時点で自分は病気ではないと確信されるようになるのか。実にアバウトな臨床経過観察からの手引きである。
自己判定して受診した患者は大抵ADではなくて、病識がなくて家族に伴われて受診した患者の中にADが認められるというのが認知症臨床の現場の常識である。
しかし45歳で若年性ADと診断されて、52歳で家族の同伴なしで山陰の某大学でAD臨床で虚名の高いU教授が、うれしそうにADと診断している光景を公共放送が流していた(同上)。
病識があって心配で山陰まで出かけたのであろう。診断後は彼女は、病識をもってAD患者の思いを訴えるための活動に従事していることが紹介されていた。狐につままれた。あったとしても、極めて特殊な例である。わたしには第二のボーデン氏としか見えなかった。抗認知薬の広告塔にならないことを祈る。
NHKも彼女が今後どのような経過をとるかを報告する義務があるであろう。ADがどういう病であるかを私たちが知って認知症患者を地域で引き受けなければならない。公共放送が事実に反した報道で、認知症現場を引っ掻き回してはならない。
初期には病識を持っているのでADの自己診断のための「認知症初期症状11質問票」(同上)までが作成されている。この質問票にはADに特徴的な記憶障害、論理的思考の低下、遂行機能の低下などを判定する質問が要領よく並べてある。
この検査でADの疑いがありと診断された患者はADの可能性が高いと思う。ただこのような障害が認められる患者が、自分から初期診断に取り組むというのは、私の貧しい臨床経験からどうしても納得できない。これらの異常があればすでに病識は失われているのが一般的である。
病状の進行とともに当初あった病識が失われていくと権威は解説する。よくわかる説明ではあるがー患者に接していなかったらその通りと納得していたであろうー、身内の方がおかしいと感じた発症当初でも、患者自身には病識がなくて困り果てたと訴えられる場合ばかりである。とんちんかんなことをしながら「俺おかしいか」と冷静に自己判断をしている例にお目にかかったことがない。わたしが診ている患者と権威たちが見ている患者の構成に違いがあるのであろう。
初期の段階では病識があると主張する専門医はどのステージに至ると病識が失われるのか、もっと丁寧な精神病理学的な機序を説明する必要があるであろう。同時に脳でどのような病変がある場合には病識が失われるかについてとの客観的な証拠を示す義務があるであろう。認知症臨床はあまりにも杜撰である。
繰り返すが固有名詞の物忘れがどんどん悪化して、病識のない体験記憶障害に至るとはとても思われない。わかりやすい説明ではあるが。
病識がなぜ欠如するかについて、精神科医から精神病理学的な考察や、神経内科医からこの部位の異常に由来するかを是非聞きたいと思う。そうでないと現場は荒廃する。
この辺りを整理しないで急いで早期診断法を普及させると一般医家はこらばぬ先に杖とばかりに、ADを過剰に診断すると思う。患者もそのほうを喜ぶから大変である。
素人の方も根拠のないことでADと自己診断してしまうであろう。その隙間を製薬会社が狙っていることはいうまでもない。ADでない人に抗認知薬を投与すれば効果がある効果があると囃し立てることができる。
ADでは初期では病識があるという専門医もいれば、ADではかなり早期から病識が失われるという認知症に携わる一般医家もいる。どちらが正しいか是非、多くの権威たちで議論をして結論を出していただきたい。すでに結論が出ているのか?
ADはかなり早期の段階でも病識がないことが特徴的であることをはっきり言うことがADノイローゼ患者を防いだり、ADの過剰診断を防ぐ第一歩である。そういうことを積み上げることで初めて成果の上がる認知症対策がわが国でできあがっていくであろう。

by rr4546 | 2014-07-05 08:03 | 医療関係 | Comments(0)