医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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介護放棄というと、役に立たなくなった老婆を姨捨山に捨てる口減らしのことを思い浮かべる方もおられるであろう。幸いなことに現在の日本では、社会保障制度が充実していて、生活に困って老人を見捨てるという残酷なことは、0とは言わないが、ほとんど行わないでいい環境の中で生活している。とわたしは思っている。
かかった医療費や介護費用に対して、収入が低ければ、色々減額処置が講じられる。収入があっても9割が介護保険、健康保険、税金で賄われる。その極端な例は、生活保護受給者で医療費や介護保険料は全額国が面倒をみてくれる。高齢者を抱えて経済的に破綻をきたした例は、極めて稀だと思う。いや悲惨な例をわたしが知らないのかもしれない。
しかし、今でもわたしが介護放棄と考えるケースはある。わたしの思い過ごしかもしれないが。そのような例をあげてこれから益々増加するハンディキャップを抱える高齢者に、われわれはどのように対応するべきかについて考えておきたい。高齢者を大切にするという大義名分で、わたしが介護放棄と呼ぶ事態を放置しておくことは、人の心が欲得だけで乱れ、何か寒々しい社会いや医療現場を生み出す可能性があると危惧するからである。いや世界に誇っていい医療制度が、不要な医療・介護に対する負担で、持続可能でなくなることを心配する。
一つ目の介護放棄は、介護施設をホテル代わりに、介護サービスでヘルパーをお手伝いさん代わりに使って、本来身内が果たすべき面倒な介護義務を、社会のセーフティーネットで賄ってもらう例をあげておきたい。本来の介護者が3Kと呼ばれる介護に時間を割かないで、居心地のいい場所で仲間と生活を楽しむ。極端な例は、改善の見込みが全くないのに、末期の認知症の母親に胃ろう(PEG)を造設して、自宅で面倒をみるならともかくも、施設―わたしの施設は胃ろうを造設している患者は、極めて短期間を除く以外引き取らないー、介護療養型医療施設あるいは特養に預けっぱなしにしている例を上げることが出来るであろう。本来公的機関に入院あるいは入所するためには、いろいろな条件があるが、引き受けるところがあるということは、預ける基準はかなり甘いのであろう。この制度を巧みに利用する人がいる。
二つ目に指摘したいのは、医師が無意識に行っている介護放棄と呼んでいい現在の高齢者の診療形態をあげておきたい。デーサービス、デーケアなどで行われている介護で対応した方が遥かに生活の質を上げるのに有効だということに全く無関心で医療行為に励む。介護の効果に対する無理解による介護無視、いや介護放棄。高齢者の診療に当たっている医師が、介護に対してもっと理解を深めれば、今行われている高齢者医療ははるかに、スマートになり、処方された薬がミカン箱に貯められているような異様な状況は解消されるであろう。
三つ目の介護放棄は、自戒を込めて告白するが、介護を担っている若者やわたしのような年齢のものも、奥の深い介護を安易に考えて、高齢者を犬猫のように扱う介護をしてしまう、隠れた介護放棄。介護は障害された機能を補助する手段と考えられているが、現在、介護は失われた機能ではなく、残されている機能を高めて、自立することを手助けする技術と考えられるようになっている。多くの機能を失っていく高齢者には、医療より介護で対応する方が、はるかに生活の質が確保できる。わたしたちは介護に真剣に取り組んでいるのか。これも介護放棄の一つであろう。障害された機能を介助するだけで一日の仕事を終えないよう努力しなければならない。
四つ目は、語るに落ちる介護放棄で、経済的にも社会的にも安定した生活を送りながら年老いた母親を、肉体的かつ精神的に虐待する例をあげることができるであろう。虐待している方も好んでしているのではなく、何かに追い詰められて知らぬ間に虐待に及ぶのであろう。しかし私たちはこのような精神的荒廃を克服しなければならない。
いや、これも自戒を込めて指摘しておかなければならない介護放棄がある。厚労省がどういうビジョンでこれからの高齢者の医療・介護の制度設計をしているかについてまったく知らないが、まず介護保険を使った場合は、医療保険を使えないようにするくらいのことはするべきであろう。実際老健に入所したら、医療保険は使えない。しかし患者が不利益になるようなことは、少なくとも私のところでは皆無である。介護保険の費用で現在望ましいと思う思う医療がちゃんと行える。しかし、老健局の幹部は介護費用だけで医療をすると高齢者に不利益が起こると、ありもしないことを心配している、面妖な話である。おかげで街には介護サービスも受けて、医療機関通いをしている高齢者であふれている。介護費用も高齢者医療費も右肩上がになるのは致し方ない。この水膨れはさらに増悪していくであろう。そして出された一つの対策は、在宅復帰強化型老健という、老健が第二特養のようなところにならないよう、患者の在宅復帰を促進させる策である。老健にはリハビリスタッフが配置されているが、在宅復帰率が上がらなければ、リハビリスタッフの存在意義はない。当然の目標であろう。ただ在宅復帰の割合で、支給される介護料が違うシステムが導入されて、介護関係者の話題は、在宅復帰率をあげることに重きが置かれるようになった。その結果、本当に介護を必要とする利用者を入所させるより、在宅復帰が予想できる軽症の利用者を選択的に入所させる動きが出ている。これは隠れた、国主導の介護放棄であろう。ともあれ高齢者に介護サービスを利用するのか、医療サービスを利用するのか選択させるシステムを構築すべきであろう。高額な高齢者介護費・医療費は、費用対効果が低すぎると思う。見えない不利益も生まれている。
今後これらの介護放棄の背景や、乗り越えていく知恵について書いておきたい。この辺りを真剣に論じておかないと、よき高齢者医療というだけで、すべてが画餅に帰すると思うから。
続く
糖尿病性認知症
今世界中で糖尿病患者がかなりの頻度で認知症になることが指摘されている。日本の学界でも権威が「糖尿病性認知症」という疾患概念を確立するよう提唱している(第31回日本認知症学会、2012年)。アルツハイマー病の中に糖代謝異常との関連が強い一群が認められるという。アルツハイマーを発症した患者の24%が15年以上の糖尿病罹患歴を有していたという報告である。高血糖がアミロイド蛋白を蓄積させるとの基礎的な研究もあるようである。
わたしは認知症患者を100例以上みている。しかしアルツハイマーと診断していい認知症で、明らかに糖尿病であった患者は一例だけであった。報告よりはるかに低い頻度である。認知症発症に不規則な生活習慣が影響を与えていると考えていたが、脳血管性認知障害を除いて、アルツハイマーもレビー小体型認知症も、いや一般的に信じられているより頻度がかなり高いとわたしが思う前頭側頭葉型認知症患者は、大部分中肉中背で、肥満があったり逆に痩せがあったりする方は皆無である。不思議な体験であった。正確に頻度は調べていないが、高血圧症、糖代謝異常や脂質異常症がアルツハイマー型認知症患者に多く見られるということはなかったように思う。勿論これらの異常が認知障害の増悪因子ではあるが。認知症は全身疾患というより矢張り脳の神経細胞に特異的な代謝異常があり、神経細胞が破壊される疾患ではないかと、神経学に全く素人の現在のわたしは思う。「なぜこうなったのでしょうか」と、悲嘆にくれて尋ねられる身内の人には、「癌と一緒で、流れ弾に当たったようなものです。本当にお気の毒です」と答えて、わたし自身も悲しい。認知症は今でもほとんど何も分かっていない疾患である。
ここであえて権威が提唱する「糖尿病性認知症」を取り上げたのは、糖尿病患者の認知症は、提唱者が指摘するように高血糖が問題ではなくー勿論そういう例もあるであろうー、糖尿病治療薬による低血糖が、脳の加齢による生理的変化と重なって認知障害を招来している可能性が高いという、高齢者のプライマリ一・ケア医の印象を書き残しておきたいからである。最近糖尿病治療を長期にわたって受けていて、認知症と診断された3例を経験した。いずれも施設に入れば食事療法ーほとんどカロリー制限のないーだけで一日血糖値は高齢者糖尿病患者としては許容範囲内であった。当然経口糖尿病薬は不要である。しかし入所前は作用機序の異なる経口糖尿病薬を最低3種類は処方されていた。治療を受けていた根拠はHbA1Cが糖尿病と診断してよい高値であるということであった。高齢者は日頃少食でも、好物を大食いする不規則な食生活を送るのが一般的であろう。HbA1Cは、簡単に言えば赤血球のヘモグロビン(Hb)が血管内の余分な糖と結合した値である。赤血球は寿命が120日あるので、一度余分の血糖と結合したHbA1Cは赤血球の寿命の半分くらい(2ヶ月くらい)は高値を持続する。そこでHbA1Cは1―2ヶ月の血糖値の平均値を示すとして、糖尿病の血糖controlのために使われる。しかし、馬鹿食いをする高齢者は馬鹿食いで上昇した血糖でHbA1Cが上昇して、その値は1~2ヶ月間続くであろう。高齢者の場合不規則な食生活から考えて、HbA1Cの値では、1-2ヶ月間の血糖値の平均をみたことにはならないのではないか。週に一度程度の馬鹿食いの高血糖によるHbA1C上昇を、血糖control不良と判断されてしまう可能性は捨てきれない。一定のカロリーの食事を規則的に摂取するのを確認すると、糖尿病と診断されていた血糖値は治療を要しない血糖値に多くの症例で収まる。これで経口糖尿病薬を服用していたのかと、驚くことも稀ではない。必ず低血糖をきたしていたと思う。高齢者のHbA1Cを糖尿病治療の目安にすることには色々問題があるというのが現在のわたしの見解である。
高齢者の糖尿病のcontrolをHbA1Cで行うと、低血糖を招来する治療を行う可能性があることを臨床医は自覚しておくべきだと思う。高齢者の糖尿病治療は、低血糖を起こさないことを基本にしないと、低血糖によって引き起こされる認知症の頻度を知らぬ間に高めると思う。
繰り返すが、高齢者の糖尿病治療にはHbA1Cを過剰に信頼しすぎないことが重要である。むしろ低血糖を起こす頻度を拾い上げる検査技術が開発されるべきであろう。いや食生活について詳細な問診が求められている。今回は詳述しないが、糖尿病を合併しないアルツハイマーと糖尿病を合併した認知症は、明らかに、短期体験記憶障害、判断力低下、時間や場所の見当識障害、ADL低下などの認知障害に明らかに違いが認められる。糖尿病性認知症は、control不良によって招来される高血糖によるものか、糖尿病治療薬による低血糖によるものか、専門家たちの注意深い臨床研究が行われることを心から期待する。わたしの現在の直感では、認知症発症を防ぐために糖尿病治療が強化されると、一層糖尿病患者に認知症がより多く発症する可能性があると思う。高齢者のHbA1Cの意義と問題点について、真剣に論じられるべきだと思う。

by rr4546 | 2012-12-25 17:47 | 医療関係 | Comments(0)
12月13日に老健京都部会がある。そこで看護師T君が発表する「医療機関への緊急受診を減らす試み」のスライド原稿を持ってきた。現在のように、高齢者がどこで医療を受けるのが望ましいか、まったく議論をしないで、高齢者が医療を受ける状況を放置しておくと、不必要な検査や副作用が危惧される投薬治療が益々幅を利かせていくように思う。高齢者が医療を受ける拠点の一つとして、全国に4000以上もある老健施設を活用するべきであるとの提案になればと思い、彼の持ってきた発表の「まとめ」を載せておく。

まとめ
医療機関を受診させると、多くの場合、過剰な検査、過剰な医療処置を受けて、著しくADLが低下して戻ってくる。
そこで容態急変時も、なるべく施設で対応するよう工夫した。
1 医師・看護師・介護士共同で容態急変時の包括的な急変時の医療処置簿を作成した。
2 医療処置指示簿に従い対応すると、医療機関を受診する利用者は骨折疑い以外は、利用者・家族 が希望する場合だけになった。ただ必要な医療処置を受ける時期を失しないよう、利用者の注意深い観察が必要である。
3 老健施設は高価な薬は使わない、安易に医療機関に搬送するなど、医療の面で巷間低い評価を受けいる。この状態を放置すると高齢者の受け皿として、多職種が働き、もっとも質の高い高齢者対応をしている施設が十分活用されない状況を生む。
4 超高齢社会を身近に控えた私どもは、老健施設でも十分医療が受けられるシステム作りをしなければならない。今回の医療処置定期指示簿の作成と活用は老健施設の役割を一層充実させると思われた。
参考のために、T君が準備した、他のスライドの表題を載せておく。
1 はじめに
2 容態急変時の観察項目・初期対応 Ⅰ
3 容態急変時の観察項目・初期対応 Ⅱ
4 誤嚥性性肺炎で入退院を繰り返していた症例
5 転倒により頭部外傷を受けた症例
6 慢性心不全が急性増悪して全身浮腫を来たした症例
7 性器出血を来たした症例
8 心不全症状の乏しかった上気道感染症の症例
9 まとめ
  

by rr4546 | 2012-12-06 16:57 | 医療関係 | Comments(0)
加賀乙彦氏の作品は「フランドルの冬」という、40歳過ぎて上梓された処女作から、最近完結した「雲の都 第五部 鎮魂の海」までたいてい読んでいる。寡作なので、読むといっても、10冊にも満たないのだが。ただ身内に文学を生業としているものや、親しい友人で作家活動をしているものがいるが、文学というと身構えてしまう。文学音痴のわたしが、加賀氏の作品に惹かれるのはなぜであろうか。肌があうというしかない。
「雲の都」という不思議な題の小説は、著者自身の一族に起こった出来事を下敷きにして、昭和初期から現在までを丹念に描いた作品である。最後は涙を流して読み終えた。著者自身は、本の中で自分は2,3流の作家で、19世紀のリアリズムの手法でしか創作活動が出来ないと書いている。ただ波乱の人生を誠実に生きて、ハンセン病患者、死刑囚、精神病者そして戦前は差別されていた朝鮮人を深く愛し、晩年はすべてを神に委ねて生きていく姿から、よしんば文学的に価値の低いものーわたしは全くそうは思わないーであっても、本当に多くの感動をいただいた。加賀先生は、一人の人間が無垢な面も邪悪な面も、残虐な面も深い愛の面も、理性的な面も感情的な面も,強い面も弱い面をもつ、多面的存在であることを深く理解しておられる。加賀先生自身をモデルにしている主人公悠太のように、生の最後を全うしたいと心から思った。加賀先生は見事な生を、自分自身だけではなく、親友で孤独に生きた久保高済や、奉仕に生涯をささげる先輩医師である村瀬芳雄先生を通して描いている。望ましい生き方はこれしかないという偏狭さは全くない。見事に生きておられる方はどこにでもおられるらしい。どの方の生きざまも、わたしのなかで宝物になった。
高齢者と接する仕事をしている動機の一つに、どのように死んでいったらいいかを考えたいという思いがあるが、「鎮魂の海」にわたしの求めている多くのことが書いてある。加賀氏の作品を読み続けてきて本当に良かった。
加賀氏は作品の中で「雲の都」と題名を付けた由来を婉曲に書いておられる。雲は天からの贈り物ということ、不条理の多いわたしたちが住んでいるこの世が、祝福に満たされた都だというのである。加賀氏の魂の豊かさに深く感銘を受けた。そして人間の思いを超えた造化の妙を描くのが自分の創作活動の原点だと、作品の中で控えめに書かれている。姦しい文芸評論家たちが、加賀氏の作品を低く評価しているようであるが、彼らは芸術の本質を理解していない。彼らの評価に対して、加賀先生には珍しく、強く反論されている個所を引用しておきたい。。
「ママは夜、ピアノを弾く。最近はずっとバッハの『平均律クラヴィーア曲集』で、追分でもこれを一日中繰り返していた。僕に少し推測できるのはママがバッハの、人間の喜怒哀楽を超越した聖霊の世界に助けを求めているということ。バッハの音楽は自分の情熱や怒りよりも、天から落ちてくる雨や雪のような地上を、すなわちこの地球を被いつくしている自然の美と呼応しているのだ。それは繰り返しのようだが、これはママも気づいていないようだけど、天の移ろい、春夏秋冬、朝と昼と夜、晴天と雨天という変化を、音で追っているみたいな音楽だ。だから、冬は寒すぎるとか雨は陰気だとか、自然に対する人間の思いを超越していて、神が創り出した和音やメロディーの美を、まったくそのまま受け入れる音楽なのだ。」加賀氏の自分の作品に対する自負を読むようである。
「鎮魂の海」を読み終えたころ、偶然であるが先輩の中尾實信先生が最近上梓された「森鴎外」を、丁重な手紙を添えて送って下さった。献本先に小生ごときを入れて下さる先生のご厚意に深く感謝した。京都大学そして神戸大学と偶然ではあるが、少しだけ接する機会のあった先生は、血液学者としても、小生のような小物と違って、大きな業績をあげておられる。その上、文学作品も次々世に問うておられる。いずれも読みやすく、内容豊かで、なぜ先生の作品が直木賞くらいで評価されないのか、不満である。最近では「小堀遠州」という傑作を出されている。そしてまた、今回「森鴎外」という作品を生み出された。今年が森鴎外生誕150年ということも教えられた。読み始めたが、文体は益々洗練されて、読み続けるのが楽しみである。文学音痴の私には、森鴎外と言われても馴染みがないが、鴎外が軍医総監まで出世し、文学者としても巷間、高い評価をうけ、功なり名を遂げたにもかかわらず、墓石に本名でシンプルな「森林太郎」とかくよう遺言したという逸話ぐらいは知っている。中尾先生の作品なので、巨人森鴎外の心の葛藤も、深く描いておられるであろう。あとがきに、先生は「幕末から明治・大正の激動の時代を生き抜いた森鴎外の生誕150年の年に際して、本書を森先生に献じようと志した。誠実で真摯な鴎外の生き様は、自己分裂を生じかねない苦痛を伴った。だが、家族の愛や恵まれた友人に支えられ、不撓不屈の生涯を生き抜いた。思えば、明治の人々には志があった。今日の日本では人間復興への志が問われている。明治維新の原点に立ち還ってみれば、鴎外の生涯からも、貴重なメッセージをくみとれるのではないだろうか」と書いておられる。読み続けるのが楽しみである。

by rr4546 | 2012-12-06 16:31 | その他 | Comments(0)