医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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最近読んだ本の中の4冊、「科学と宗教と死」、「マーラーの交響曲」、「中国化する日本」そして「私は誰になっていくの?アルツハイマー病者から見た世界」を紹介しておきたい。書評を書くほど深く読めないが、手に取る際の参考になればと思って、心に残ったところやどうもこうも理解できないところを引き写しておきたい。
「科学と宗教と死」(加賀乙彦)
加賀氏は時事時評のおつもりであろう、手軽に読む新書版の本を時々出される。「小説家が読むドストエフスキー」、「悪魔のささやき」、「不幸な国の幸福論」いずれも、淡々とした口調であるが、心温まる生き方や憂国の思いを述べられている。常識的で目新しい主張がないとの批判もあるが、わたしはいつも多くのことを学んでいる。
『あちこちに「頑張ろう日本」と張り出されている。それだけであれば原発を作り電気を生産し、産業を興し、作ったものを全世界に売って、またお金持ちになろうということではないでしょうか。相変わらず傲慢不遜に自分たちの力に頼んでいるのではないか、心配です。自分たちに力はわずかなもので、その無力を自覚しつつ補ってもらう。人間が己の力で頑張るだけでは足りない、もっと大きな力を祈りによって引き出してもらう、そういう謙虚な気持ちが必要だと思います。国民のほうも政府に金を出せという気持ちではいけないと思います。我々も祈らなくてはならない。自分の体で奉仕しなくてはならない。』
同年輩の石原慎太郎閣下が、隣国を貶めるようなマッチョな祝辞を都立大学の若い卒業生に送ったとの報に接して、一層加賀氏の活躍を祈った。80歳近い人気の高い政治家が、大阪場所で優勝した白鵬や大関に昇進することの決まった鶴竜より、品位に欠ける発言をするのは残念だ。
「マーラーの交響曲」(金聖響+玉木正之)
最近は、バッハとマーラーの曲ばかりを聞いている。周りにマーラー好きはいない。難しい難しいばかりと愚痴られる。お陰で自分がマーラーに惹かれる理由を語りあう機会がなく、なぜマーラーが好きなのか自分でも判らなかった。ミーハーがAKB48が好きなように、自分はマーラーのミーハーだと思っていた。しかし若い指揮者金聖響氏とスポーツライター玉木正之氏が書き上げた「マーラーの交響曲」は、本の帯に入門書の決定版とうたってあるが、わたしにはマーラーの全体を理解する最良の教科書のように思える。お二人のマーラーへの思いは世界広しといえども、そんなにないように思える。驚くほど多くのことを学ばせて頂いた。
『「ベートーヴェンが、「第九交響曲」で、「全世界の兄弟たちよ、抱き合え!」というメッセージまで、発信したあと、ロマン派の作曲家たちも素晴らしい交響曲を創り出しましたが、ベートーヴェンの大名曲の「大きさ」を凌駕するに至らなかった。それをやってのけたのが、「マーラーの交響曲」といえますね。」
『「交響曲」といえば、ベートーヴェン以来、人生との闘いにおける勝利や、自然の偉大さや、宇宙の広大さや、自然や宇宙を作った造物主の存在への畏敬の念・・・・といった、形而上学的なテーマと哲学的な思考を伴うものと考えられ、そのことをマーラー自身が交響曲「復活」で示してみせたのです。』
『マーラーは、交響曲作家として歩みだすのと同時に、自然・神・天国・生と死・・・・など、色々なテーマを考えながら、音楽を創りつづけてきました。』
『マーラーの「交響曲八番」も、ベートーヴェンの「第九」と同様、キリスト教の影響下の社会で育った作曲家が、キリスト教ときわめて関係の深いテキストを用いて創った音楽ですが、キリスト教を大きく凌駕した、汎神論的祝祭の音楽といえます。』
『「大地の歌」でマーラーが新たに描き出した「世界」は、単なる「異国趣味」でもなければ、大航海時代以来ヨーロッパで流行しつづけた「中国趣味」でもなく、東洋的「厭世感」や「耽美主義」が見事に西洋音楽と合体した、素晴らしい「音楽世界」を創り上げています。この音楽が、マーラー自身も傾倒したことがあるショーペンハウエルの悲観主義哲学や、ニーチェの厭世主義や虚無主義にも通じるところがあるからでしょう。』
『いま大きな時代の変わり目に遭遇している地球上の全世界にとって・・・・、なかでも、震災、原発事故、政治経済的混乱など、激動のなかにある日本と日本人にとって、時代の変わり目に、音楽できちんと一時代に決着を付けたマーラーの音楽こそ、傾聴に値する音楽のように思えます。現代人よ、マーラーを聴け!日本人よ、今こそマーラーを聴け!そこから何かを聞き取れ!。』
マーラーの曲を一層好きになった。お二人のマーラーを愛するお気持ちと博覧強記に敬服。
勿論、本の中に楽譜も紹介されて、マーラーの音楽の斬新さや、現代音楽の先駆けになった理由が述べてあるが、わたしには十分理解できない。残念。
次に「中国化する日本」と「私は誰になっていくの? アルツハイマー病者から見た世界」を紹介する。

by rr4546 | 2012-03-27 09:51 | 日本人論 | Comments(0)
医療の中の落とし穴  2006年書き上げ

医療過誤に関する訴訟件数はこの10年間で2倍以上に増加している。医師の立場からすると言いがかりに近いようなケースもあるが、当事者が反省しなければならない場合も多いように感じる。日本医師会も平成17年4月発行の「今、医療に求められるもの」という雑誌の特集号(第134巻・第1号)で、現在の医療の問題点を克服していくための多くの貴重な提言を行った。すべての医療機関で医療事故を防止するために真摯な検討がなされているであろう。高い倫理観を掲げて医療技術の向上に努めるのはいうまでもないことであるが、ただそれだけでは医療過誤は減少しない感じがする。医療という仕事に携わる人たちの考え方の中に、何か医療過誤のようなものを知らぬ間に生み出してしまう、落とし穴というようなものがあるのではないか。そこで医療事故・薬害を惹き起こしてしまうかもしれない、私たちの考え方の背景について考察を加えた。
Ⅰ.医療は善意に基づいているのか?
医療に携わる人で人を苦しめようと思っている人はいないであろう。すべての人が病人のために役立ちたいと願いながら仕事に取り組んでいる。それにも拘らず、聞くだけでも胸が痛む医療ミスやC型肝炎ウイルス感染事故などの薬害事件は後を絶たない。このような意に反する事件を惹き起すのは、医療に取り組む人たちの考えの中に医療過誤を知らぬ間に惹き起こしてしまう、勘違いが潜んでいるかもしれないことは否定できないであろう。
医療は善意に基づいて成り立っているというのはcentral dogmaである。医療の基本という事を具体的にあげてみれば、「病気に対する挑戦」、「病んだ人に対する思いやり」ということになろう。善意という事をさらに詳しく見てみると、「他人に対する献身」、「愛情」、「自己犠牲」、「奉仕」、「優しさ」などを上げることが出来る。当事者である私どもも顔が赤らむが、どういう気持ちで取り組んでいるのかと問われれば腰が引けるが、今上げたようなことを言うことになろう。邪な気持ちで医療に携わっていても、それは軽々に口に出せない。
それにしても格好がよすぎないだろうか。このようなきれい事で医療を表現すると、格好よすぎて自分を批判的に眺める眼差しが持てなくなってしまうのではないだろうか。主観客観不分離、これは西田幾多郎先生が苦の原因は主観と客観が分離することにある、望ましいのは主観客観一致の高い境地に至ることであるとおっしゃったようであるが、私がここで使う「主観客観不分離」は、動機がよすぎると自分がやった事を客観的に評価する事を忘れてしまう、自分を批判的に眺められない、自分がよいと思うことを客観的に評価しないで、客観的にもよいと信じてしまうという、医療従事者が陥りがちな落とし穴を表現するために使っている。JRの汽車までちょっとしたミスで吹っ飛んでしまう。人が携わることは間違いだらけであろう。その中でも、動機が良すぎると、客観的にも自分は善意で生きていると容易に錯覚して「間違い」がなかなか認められないのが特徴ではないだろうか。この主観客観不分離の気持ちに陥り易いことが医療過誤や薬害を生む原因の一つになっているように感じる。
医療の基本は善意であるとまとめてみたが、ひょっとすると「善意」ということを私どもは軽く考え過ぎているかもしれない。善意ということを考えるために、西田幾多郎先生の「善の研究」などを読むと、善意が格好いいものでないことが直ぐ判る。「真の善は唯一あるのみである。真の自己を知ることに尽きる。」(西田幾多郎 善の研究)。奉仕することであるという格好いいことなど書いておられない。私のような年齢になると、連れ合いを大切にしないと寂しい老後になると心配で、連れ合いが喜ぶことをと思って、サービスに励む。なんでもするという覚悟で「あなたのためにこれだけ努力している」と張り切るが、何も通じない。連れ合いに言わせると「自分の好きなことして、勝手なことをしている」とけんもほろろの返事である。誠意を汲んでくれないと愚痴を漏らしておられる先生方も多いのではないだろうか。その理由が西田先生のご本から学べる。善は人が喜ぶ事をすることではなくて、「自分のことを深く知ることである」とおっしゃっておられるのだから。医療に取り組むも私たちも、患者のためにという甘い言葉に騙されてとんでもないことをしないよう、善意の本質を真剣に考えながら医療に携わる必要があるのであろう。
「善の研究」の中にはさらに興味深いところがある。「花は花の本性を現じたる時最も美しくなるごとく、人間が人間の本性を現じたるときは美の頂点に達するのである。利己主義は自己の快楽を目的としたわがままで、個人主義とは正反対である。自己の知を尽くして情けを尽くしたうえに於いて初めて真の人格的要求即ち至誠が現れてくるのである。自己の本分を忘れ徒に他のために奔走した人よりも、よく自分の本色を発揮した人が偉大であると思う。真の自己は宇宙の本体である。真の自己を知ればつとに人類一般の善と合するばかりではなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである」。一人合点して走り回っても、おかしなことを仕出かすことがあるらしい。尽くしているなどと自惚れることはもってのほかだ。人のためにという調子のいい気持ちを厳しく見つめることが求められている。医療に取り組む時に大切な心掛けだと思う。
神秘的で難しくなるが西田先生は「自覚における直感と反省」の中で「知識客観性の要求とは主観的なものより客観的なものに、抽象的なものより具体的なるものに、部分的なものより直接の主体に進むことであり、すなわち具体的全体が自己自身を顕現する要求であり、自己が自己自身の根底に返りいく要求で・・・・」とやはり善は、その客観的な価値を求めなければならないことを強調されている。善の評価も具体的に、かつ全的に行うべきである。善意の塊が医療過誤を起こすのだから、是非学んでおきたい。
Ⅱ.医療過誤を惹き起こすmentalityとは?
善の考えを深めれば、医療事故や薬害が防げるかというとそんな簡単とは思えない。弱い立場の人が被害を受けやすいという土壌が日本にあるのではないか。三菱自動車の欠陥車隠し、三井物産の欠陥公害防止マフラー事件、官製談合、肉や野菜の産地偽装、損保や生保による不当な未払いが数万件あるとのことである。ユーザー、国民そして消費者という本来主役である人たちが蔑ろにされている事件は、枚挙に暇がない。主役に対する思やりの欠如の由来について考える必要があろう。
日本人の精神的背景を形作っているものとして、先ず大乗仏教をあげることができる。釈尊が説いた「生きることは苦であり、苦の原因は渇愛からくる。正しい方法で欲望を滅すれば自由な境地、悟り、涅槃が得られる」という教えよりは、「般若心経」でお目にかかる「色即是空」「空即是色」の「空」を基本教義としてすべての事物は「空」であると、自我への執着を絶つことや、すべての事物に本質がないことを観ずる、無神論的な思弁の世界を表した「空」を中心とした教えが日本人の心に深く影響している。「空」という思想は、言葉を持ったお陰で妄想の世界でしか生きていけなくなったことを自覚させる大切な教えであるが、多くの場合考えたり思い悩んだりしていると、何を愚図愚図しているのか、「空」ではないか、いつまで自己に執着しているのか「喝!」といって人間的な営みを封じるために都合よく使われがちである。煩悩は渇愛から来ている。その通りであろうが、「空」といってすべてを片付けてしまう単純さは、医療という技術的にも精神的にも最高の知恵が求められる現場では、問題をないがしろにするだけで、百害あって一利なしであろう。もう一つは悉有仏性という、中国仏教から来た「草木国土悉皆成仏」、すべてに仏が宿る、特に最近、多くの文化人たちが「自然に優しい」ということと同意語として使っている、生きとして生けるものに神が宿っているというアニミズムの教えをあげることが出来る。中国では老荘学派の「道」という哲学を介として「草木国土悉皆成仏」という独特の仏教思想を生んだが、日本では思索を重ねた結果ではなくて、未開の人が生き物に神が宿っていると信じた、いわゆるアニミズム、アニミズムというと格好が悪いので耳障りのいい「草木国土悉皆成仏」などといって、原始社会の未開人たちが生き物や不思議な自然現象に霊魂が宿っていると自然に対して畏敬の気持ちを持っていた素朴な神観をそのまま引きずって、「悉有仏性」と言っているように思う。アニミズムはユダヤ・キリスト教の世界では紀元前5,6世紀にイザヤ書などで一神教的な考え方が完成されると同時に乗り越えられた。アラブ社会では紀元後7世紀にムハンマドが創造主アッラーに従うことだけが生きていく根拠であると説いたとき、当時の部族の間で信じられていた、アニミズム、シャーマニズム、祖先神信仰はジャーヒーリヤ(無知・無道の時代)として乗り越えられた。しかし日本では原始宗教の考えの一つである、アニミズムが今でも精神世界の中で力を持っている。これは一度も自分を超えた存在について思い巡らすことがなかった、いや自分の考え方の枠組みを一度も成熟した知の枠組みに組み替えなかったために原始的な宗教観がそのまま残ってしまったようにわたしには思える。そしてわたしたちを呪縛して、自分も神々の一人だとの思いあがった考え方を無意識に持つことに役立っているのではなかろうか。医者が神のように不遜な気持ちを持ったら一体何が起こるであろうか。オウム真理教の若い信徒たちが、純粋な気持ちで神になる道に励んで、テロに近い事件を起こし、自壊したように、神のような無謬になることを救いと考えることは危険であろう。人間は神と違って余りにも、愚かな生き物であろう。アニミズムは、この当たり前の自覚を持つことを妨げる。
「神々の一人である」と信じるのは気分がいい。ただ「自分は正しい」と唯我独尊的な思いに取り付かれやすい。自分自身に対して批判的な眼差しが持ちにくい。神が罪を犯すとは思い至らないであろう。「俺が考えたように生きておれば、環境破壊も戦争もおこらない」。これがわたしたちのmentalityの一つとしてあげることができるであろう。多くの文化人の言動を見ていたら頷けるのではないだろうか。彼らは「私のように考えたら、戦争も起こらなければ、環境破壊も起こらないと」と繰り返し、縄文時代や江戸時代を懐かしんで喝采を浴びている。
もう一つ日本人のmentalityの特徴を作っているものとして、儒教の教えをあげることが出来る。江戸時代凡そ250年近く、平和で文化的な幕藩体制は修己治人の学である儒学の教えで支えられていた。幕藩体制が整備され維持するために修己、道学の朱子学が特に尊重された。この儒教は支配者の心がけの根幹となっただけではなくて、庶民の生きる規範としても大切にされた。この儒教は本場の中国では郡県制帝国の王朝体制が克服された近代化の過程で、思想・文化的な側面から厳しく批判にさらされた。一方日本では儒教の教えが法の支配や民主主義を生まない前近代的な思想として深刻な葛藤に陥る前に、ペリーの艦隊の出現に驚いて、欧米列強の発展に遅れまいと頑張って、それらに匹敵するかなり力を持った近代的な立憲君主国を作ってしまった。お陰で儒教は乗り越えられるどころか、近代的な国家体制の維持だけではなく、人々の生き方にも強い影響を残した。日本人は未熟な思想の矛盾に苦しんで、新しい思想を作り出して時代を切り開いたという経験があまりない。幕藩体制から明治維新に移った時も、そして帝国主義的な太平洋戦争をしている時から、戦後民主主義の時代に移っていった時も、古い思想を乗り越えて、新しい思想の下で国つくりをしたというより、ペリーの艦隊に驚いたり、原爆に驚いたりと外圧で国の形を変えていったと言っていいであろう。現代は太平洋戦争前と全く違った原理・原則で国が成り立っているにも拘らず、今でも太平洋戦争は正しかったと信じている人がいる。過ちを認めて思想を作り変えない。新しい時代は新しい原理・原則で立っていることをなかなか認めない。
儒教の教えは私たちの規範として今は働いていないと信じている人は多いかもしれない。しかしよく見ると日本人の生活態度に深く関わっている。儒教の教えは五倫・五常としてまとめられるが、五倫とは君臣の義・父子の義・夫婦の別・長幼の序といわれる、人のよって立つところを上下関係で理解するのを基本とする。確かに社会的にも家庭の中でも他者との関係を上下関係で捉えると納まりがいい。この上下関係を維持するためには仁・義・礼・智・信の五常が求められる。ただこの教えをよく見ると、サルのボス社会を人間の言葉で言いつくろっていると思えなくもない。孔子はサルのボス社会を眺めていると実に安定した共同体が維持されているのに気が付いた。人間社会もかくのごとく安定していなければならないと、人間社会を作る原理・原則としてサルのボス社会の知恵を拝借したようにわたしには思える。閉鎖した社会では一人のボスを頂点としてヒエラルキー社会を作ると実に平和な安定した時を楽しむことが出来る。ただ平等とかパートナーとかという近代思想を生み出さない。わたしたちは相手を上下、強弱、貴賎という価値判断で眺めることに傾きがちであろう。医者が上で看護師が下、あるいは患者は医療を受ける弱者だと見なしがちである。いや私たちはこれ以外に相手を見る眼差しを持っていないといったほうが正しいかもしれない。犬も隣の犬を自分より強いか弱いかだけで見て、パートナーとして眺めることが出来ない。                   お陰で分を弁えて、つまらぬ争いごとを上手に避けて生きている。しかし医療に携わりながら、主役である弱い立場の患者の利益について鈍感になりがちであることは知っておかなければならないと思う。患者のことより手柄を立てることに重きを置きがちかもしれない。患者を尊重すると言って、自分の治療方針を無意識のうちに最善なものとして押し付けてしまう。          もう一つわたしたちのmentalityを作り上げているのに神道がある。神道は教義というものを持たない茫漠とした教えで、日本人の振る舞いに何もかかわりがないかというと、日本人の心をしっかりと支配している。初詣になると神社に何千万人が、家内安全、健康長寿、商売繁盛、合格祈願、子宝祈願を願って参拝に訪れる。勿論わたしは京都に住んでいるから、お正月は神社詣りのはしごである。初詣には熱心に出かけるが、ではお参りした神社には何が祀ってある、ご祭神はどなたか知っている人はほとんどいないのではないだろうか。
例えば伊勢神宮には天皇陛下の祖先神「天照大神」が祀ってある。天皇陛下の先祖をたどっていったら神になる。先祖をたどっていたら神ではなくて原核生物のはずである。日本人が進化論を信じているとは軽々には言えない気がする。私たちは進化論を信じながら、「自分は神だ」と思っているのではないだろうか。「神の国」などの発言も突然出てくるのは止むを得ない。この思い違いも医療に取り組む際の障害になるであろう。自分の行為を客観的に評価できなくしているであろう。
仏教、儒教もそして神道も無神論的な知の営みなので、自分を超えた存在にどうしても頭が下げられない。神に従うのではなくて、神を自在に操るという不遜な心を持ってしまう。お陰で他者概念が貧しくなり、自分の世界だけですべてを考えようとして、自我ばかりが幅を利かせて、自我を批判的に眺めることが不得手になる。神社はそういう貧しいmentalityを永らえさせるために実によく機能していると思う。
こういう精神的基盤のもとで生きていると、どういう世界観というか人生観を持つかというと、唯我独尊的か丸投げ的な考えに陥りやすいと思う。そして多くの人たちは、無意識に上のものに諂って、無常観に捕われてしまうのではないだろうか。欧米人がパワーというのは、軍事力でも、政治力でもそして経済力でもない、知性を振り絞る構想力であるといって試行錯誤して難問だらけの新しい世紀を目ざしているのと比較すると実に諦めが早い。難問だらけのこれからの世紀を生きていくには問題がある人生観のような気がする。
Ⅲ.医療従事者の規範?
サルが縄張りを必要とするように、人間は生きていくためには縄張りに相当する知の枠組み、規範を必要とする。こうしてみるとわれわれ医療従事者はどのような規範のもとで日々の医療を行っていると言えるのだろうかと考え込まざるを得ない。イスラーム教国ではコーランを、欧米先進諸国では聖書の教えを規範として人々は生きている。自分を超えた規範を持たないで生きている近代人は日本人だけかもしれない。ルールなしで野球やサッカーをするといって駄々をこねていると、常識だけが異常に発達する。わたしたちの常識はかなり信頼に足るのは衆目の認めるところである。生真面目さ・勤勉さや、団体行動の中での従順さや、怒りを腹の中に押さえる忍耐強さは、よく発達した常識のお陰であろう。ただ現代の医療を常識で行うほど、単純でなくなっている。生命倫理、患者の権利、健康の定義、死に方そして経済的側面等と医療に関わる問題は深くて、多岐にわたる。現代求められる医療を行うための常識(規範)を、衆目の認める名医、生命倫理学者、宗教学者、医療経済学者、そして患者からの助言を参考にして作り上げた思想を徹底的に練り上げる時が来ているのではないだろうか。その中でも規範を作るためには、医療の主役である患者の意向を聞くことが最も重要であろう。患者の意見を聞くことを疎かにすると、医療の中で戒めなければならないと最近特に指摘されている、paternalism(父権主義)の過ちを犯すことになるかもしれない。自分の方針が唯一と信じて、患者はこう望んでいると早とちりする。説明と同意といいながら、自分の方針を最優先する。今こそバランスの取れた知恵をさらに磨き上げ、患者中心の医療を行うための規範と呼んでいいものに作りあげる時である。知恵を豊かにして、望まないのに医療過誤事件に巻き込まれたり、患者を苦しめるような過剰な医療をすることのないよう是非心掛けたい。
おわりに
今まで述べたわたし達のmentalityは駄目だとは言えない。日本ほど経済的に豊かで、何のタブーもなく生きられる国があるであろうか。ハイテク産業はいつも世界のトップを走っている。一神教を信じる世界では戦争ばかりをしているように見える。しかし生と死というあらゆる知識を総動員して取り組まなければならない医療の現場では、日本人のmentalityには問題があるとの自覚が必要だと思う。医療過誤を起こしてしまうかもしれない原因を、自分達の精神世界の中にまでさかのぼって考えなければならない時が来ているように思う。患者を主役としたそして医師が下僕である医療界、いや患者も医師もparamedicalのstaffも上下関係ではなく、パートナーとなって取り組まなければならない難問だらけがあるのが現代医療の状況である。

by rr4546 | 2012-03-23 15:57 | 医療関係 | Comments(0)
介護を要する心血管系、内分泌系等主要臓器に異常がある高齢患者はどこで診てもらっているのであろうか。国が進めている住み慣れた自宅、療養型病床と呼ばれる昔の老人病院、そして在宅復帰を目的としている老健そして終末期の生活の場と位置付けられている特養などで介護と医療を受けているであろう。グループホームや介護付き有料老人ホームの住人も往診あるいは外来受診で同じサービスを受けている。   その中で、国は在宅医療を充実させて、これから増える高齢患者対策―団塊世代が高齢化するので、現在の年間死亡者数は120万人から20年後は160万人に達する!ーを進めている。往診だけを専門とする開業医も、最近は増えている。病院や施設に入った時と同じように、自宅でも医療、看護、リハビリそして口腔ケアが受けられるよう、在宅での医療・介護の体制は現在でも驚くほど整備されている。年間160万人が亡くなれば、現在の病院・施設では対応できない。在宅医療・介護はこれからも手厚く充実されていくであろう。方向性は正しい。                      限られた時間内で、高齢者の肉体的ならびに精神疾患に対して適切な医療が行えるかどうかについては、24時間、多職種で患者を診て初めて、高齢患者を診ることが出来ることを知っているわたしにはかなり難しいと感じる。テレビで往診現場を見ると、医師は医療を行っているというより、患者の心の支えの役割を果たしているようにみえる。「おじいちゃん元気そうだ!」と往診医はいつも励ましている。診察は短時間で、本当に医者が出掛けて行く必要があるのか、その前後のやり取りをみていないのでわたしにはわからない。往診学の研修を受けた名医が多くいるのかもしれない。ただ往診先の医療行為は、ざっと考えただけで看取りを含めて5疾患位、行う医療処置は多めに数えても10種類くらい。テキストブックを作れば医師でなくてもやれる類のことばかりのような気がする。実際、医師免許を持っていれば、臓器別の専門医でもすぐ総合医である往診医になれる。産婦人科を長く専門としてメスを持つ手がおぼつかなくなって、内科を標榜して往診医に転身している例も多い。                                                  南田洋子を知っておられる方は多いと思う。認知症を70歳くらいで発症して、おしどり夫婦として有名であった俳優長門裕之が長い間、看病し確か75歳で、昨年だったか死亡した女優である。実名で語るのを躊躇したが、お二人ともすでにこの世を去っていること、南田氏が認知症でることを、夫である長門氏が告白し、お二人の闘病生活をTVなどで公開していたことなどで話を分かりやすくするために実名を使う。南田氏が認知症と診断されてからどのような医療や介護を受けたかについて全く知らない。ただ亡くなったのは自宅だったと記憶している。最後は病院に運ばれたかもしれない。南田氏は重度の状態で最終ステージではあったが、認知症で死んだのではなくー認知症で死ぬことはないー、報道から推測すると、誤嚥か何か突発的なアクシデントで亡くなられたのであろう。嚥下障害が出ても、在宅で診る度胸のある医師は余りいない。食材の工夫、食事時の姿勢そして口腔ケアと介護は大変だから。だから、わたしは病院か施設に入れておくべきだったと言っているのではない。中村仁一氏が「大往生したけりゃ、医療とかかわるな」という題の新書版で、高齢者が医療機関にかかることの問題点を指摘した。人生観には違いがあり、彼の勧める医療行為がcontrol studyを行った上でbetterであるからと推奨しているのか、いささか独断に過ぎると感じるが、共鳴することは多い。予後の改善が期待できない疾患―老化も含めてーにかかった時には、医療と関わらないで穏やかに過ごすことに心を砕くことが重要であるとの主張は、特別な症例を除いて正しいと思う。     突発的な死に至るアクシデントがおこった。わたしはお二人が自宅での死を迎える準備をされていたとすれば、それが何か医療機関にいれば対応できるようなアクシデントであったとしても、立派な死を迎えられたと合掌する。                                  南田氏の主治医は、認知症特に、発病状況から見ると典型的なアルツハイマー型認知症は、孤立した状態で診るより、デイケアや老健などの介護体制のしっかりした場所を利用すると、思いがけない認知機能の改善が見られたり、穏やかな死を迎えられる場合が多いことを知った上で、在宅での医療に最善を尽くしておられたかどうか危惧するのである。アルツハイマー型認知症患者の集団生活への溶け込みは、発病前の頑固さや、人嫌いの気質があっても大変スムーズにいく。他者の認識があいまいになるためであろう。女優業という多くの人との共同作業をしなければならない仕事を生業としていた彼女は、とくに集団生活に馴染まれたと思う。往診医が南田・長門夫妻に、認知症になった時、色々のオプションを正確に伝えたのかと心配しているのである。自宅でヘルパーや看護師の24時間体制の介護と、自分の往診だけで最高の医療をしていると考えられていたのではないか。これは限られた情報から描いたわたしのストーリーで、真実はもっと往診医と長門氏との間で、真剣に話し合いが持たれ、自宅での療養を選択されたのかもしれない。その上の療養生活であれば、わたしはそれはそれで立派であったと高く評価する。想像ばかりで色々御託を述べるのはこれ以上控えたい。 在宅での医師の役割のイメージがわかないのである。                        在宅医療などと名付けるために生まれる弊害のもう一つの症例を上げておきたい。胃ろうをつけて在宅で医療を受けている患者が、中村氏が著書の中で示している手か足か判らないほど関節が拘縮して、異様な体型になった患者にも、1日量の栄養補給と水分補給をしている例にお目にかかる。ショートステイでお預かりすると、栄養補給や水分補給を1/2から1/3量に絞るだけで、喘鳴は消失して浮腫も軽減する。短時間で限られた空間での診療ではこの程度の成果しか上げられないであろう。こういう例を見ていると在宅医療など絵に描いた餅ではないかと思える。                                                 在宅医療を充実させたいと考えるなら、臓器別の専門医が増えて、総合医の占める割合が減少している現在、多臓器の疾患を持ち、高齢で予後の限られている患者を短時間で診る往診医の研修を、わたしは義務付けるべきであると思う。症例はそんなに多くはない。それなしで、在宅医療と名付けると、医師が自分の知識だけを頼りに、穏やかな高齢生活をぶち壊す可能性があると思う。                           もう一つ指摘しておきたいことは、在宅で診る医師が一人であるために、医師の独断によって事を運ぶという医療の密室性からくる弊害があることも指摘しておきたい。医療というといかにも善意で行われ、最善なことが行われると、医師本人も患者も信じ込んでいるが、ピントはずれなことを繰り返し、工夫をしないままただただ往診を続けることが起こりうる。在宅という密室では、医師は医療という美名のもとで、独りよがりな医療行為をしがちである。これをわたしは医療の落とし穴と呼んでいる。10年前以上にそのことについて論じた「医療の落とし穴」を次回はこのブログにアップしておきたい。                                   在宅医療は患者自身の気持ちを尊重するためにも、将来の日本を考えても充実させなければならない。そのためには医療側で工夫や努力をするべきことは多い。わたしの今の見解は、在宅での療養は医療と呼ぶのではなく、在宅介護・看護と呼ぶべきであると考えている。成果も医療によるより、介護で得られる方が遥かに多い。在宅医療と呼ぶが医師の役割は誠に限られたものである。そのことをはっきりさせないと、往診は儲かると、患者の囲い込み競争にうつつを抜かしたり、医療と呼べない診療行為に国民が高額な医療費を払わなければならない事態を招くと思う。
by rr4546 | 2012-03-13 17:13 | 医療関係 | Comments(0)