医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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 先週の水曜日から土曜日まで、東京で開催された老年学会学術集会に出席した。老人を診ているのに老年学の専門医が集う学術集会に出席したのは初めてであった。不勉強な老人専門医である。会場は一流のシティホテルで、老年社会科学会、基礎老化学会、老年歯科医学会、老年精神医学会、ケアマネジメント学会、老年看護学会との合同開催であった。高齢者の健康のために働く医療関係者が一堂に会していたであろう。ホテルの中はむんむんと人いきれで溢れ、高齢者医療に関して、これだけの広いレパートリーの人たちが頑張っておられるのを知ってうれしくなった。3日間、会場に出かけ、興味ある演題を聞いたが、最後まで聞いたのは余りなかった。臨床に関連していることにしか興味がないためであろう。老年病は、どこまでが生理的な変化なのか、どこまでが病的な変化なのか判別しがたい。何か生理的な変化と呼ぶしかない病態まで、分子レベルのテクニックを使って、その帰序を解明し治療しようとのたくらみは、何か道教の賢者たちが不老不死の薬を求めて、長い旅を続けたのに似ている感じがした。私の感性には馴染まなかった。賢者たちは、結局不老不死の薬を手に入れることはできなかったということを思い出していた。
 老化は、生き物にとっては避けがたい死に至るプロセスの一環で、結局、不老不死の戦いは似非健康の患者ばかりを作り出すように感じた。老化を医療で切り込むより、老年をいかに穏やかに過ごすかの知恵の発見や薬を開発することの大切さを再確認した。
 たまたま友人が、書評を頼まれた本だからと、先日、秦郁彦著「病気の日本近代史」を送ってくれた。幕末から平成の現代まで、日本人がどのような病気に侵され、どう戦ったかの記録である。膨大な記録の詳細な読み取りの下での病気の変遷が、興味あるエピソードに交えて紹介してある。その中で学術講演会に出席していて思い出したのは、戦前死因第一位であった肺結核との戦いの章であった。ストマイ、パスそしてヒドラが発見されるまで、死因第一を占めていた結核に対して、優秀な医師たちは手をこまねいていたわけではない。大気安静法、人口気胸、胸郭形成術、ピンポン玉充填術等の虚脱法、肺切除、空洞切開などの直達法と、あらゆる知恵を絞って結核と戦った。彼らの努力に支払われた医療費は、一時は総医療費の37%に上った。ただ戦後ストマイ、パスそしてヒドラが導入されると、結核による死亡率は急カーブを描いて下降し、年間17万人余にまで上った死者が、現在では2千人台へと減少しているという。ストマイの臨床応用が始まるまでの、医学者たちの戦いの意義を評価をすることは難しい。
 病というべきか、生理的変化というべきかつかみどころのない老化への戦いは、戦略を立てないまま、熱気だけで取り組むと、結核への戦いのような、莫大な医療費を使ったが、そのアウトカムは悲惨な結果であったということもありうると感じた。
 悲観的な感想を持った学会出席であったが、似非健康や不老長寿を目指すのではなく、高齢者の穏やかな生活を確保するためにはあらゆる努力を払うことの大切さを再認識した場ではあった。

by rr4546 | 2011-06-24 14:33 | 医療関係 | Comments(0)
 石原慎太郎東京都知事の「核武装をするべきである」との主張をきっかけとして、わが国の核武装政策について論じるためにこのシリーズを始めた。その後、広島・長崎の原子爆弾より放射性物質の飛散が多いと予測されている福島原発事故がおこった。その責任の所在を論じて回り道をしてしまった。原子炉損傷を防ぐための海水注入やベントについて基本的な知識不足に基づく主張を展開し、恥ずかしいが、指摘しておきたい基本的な事項は変わらないので、間違った記載は訂正しないで載せておく。総理大臣の再臨界は起こらないかという、ピント外れの発言で現場が混乱したことに比べれば、小生の知識不足が招いた誤った主張は許容範囲内だと思うのだが。かくの如く、現代科学の粋を集めた原子力発電のメカニズムや危険の全体を理解するのは、素人にとって手の余ることなのであろう。一般の方が、遺伝子操作による治療や、iPS細胞の医療における将来性の説明を聞いても、多くの誤解をするのと事情は同じであろう。それにしても、原発事故の可能性とその恐ろしさについて全く無頓着であったのは、ただ恥いるしかない。自分に限って、自動車事故を起こさないと信じ込んで、無謀な運転で事故を招く心理的錯覚と、何か共通する、我欲に目くらましされた根拠のない楽観主義は、この躓き石の多い日々を生きていくための安全装置なのか、結局は大惨事を招き寄せる落とし穴なのか、もう一度自分にゆっくりと問うてみたい。
 回り道をしていてはきりがない。核武装をするべきかどうかの本題に入らなければならない。いや核心を論ずる前に、石原慎太郎氏の「東日本大震災は天罰が招いた」との発言について、急ぐからといってはし折るわけにはいかないように思う。
 氏は、震災後「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落す必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べた。発言の中には「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。我欲だよ。物欲、金銭欲」、「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。それを津波で一気に押し流す必要がある。積年たまった日本人の心の垢を」と例の早口でまくしたてた。
 ほとんど天について思いめぐらすことのない、私たちの多くも、罰があたったかもしれないと、何か真実を言い当てられたかの如く、石原慎太郎氏の批判にこうべを垂れている。私の敬愛する仏教学者である末木文美士先生も、日蓮は、「立正安国論」で「世の不正義が善神を追いやり、悪神を招いて災いが起こるという」と一貫と主張していることを紹介した。先生の主張は石原慎太郎氏がこともなげに「我欲が天罰を招く」と断ずる態度とは違って、色々深い思想と洞察の上でのご主張なのだけれど。
 石原慎太郎氏が我欲をどのような意味で使ったのか知る由もない。ただ、我欲が天罰を招くという御託宣は、誰しも身に覚えのあることなので、表だって反論できない。石原氏自身は、日本人を毒している我欲から解放されて、我欲とは無縁な生活を送っておられるのであろう。ただ本当に我欲に引き回されないで、言葉を言いかえれば自己犠牲的で、志の高い、高貴な人はこの世にいるのであろうか。私は、すべての人にとって多かれ少なかれ我欲は生きていく根源的な力の源になっているように思う。我欲に天罰か下されるというのが天の掟であれば、すべての人々に天罰が下ることになると思う。石原氏だけはノアのように逃れられるか。
 石原氏の我欲が何を意味するか詳らかではないが、我欲は天罰を招くという単純な論法で、今回の震災の原因を言い当てることはできないように思う。我欲は悪であるという主張には、我欲を抑制すれば、正しい生き方が出来るという、単純な思想が垣間見えて、またぞろ、不毛な、強欲な欧米人の悪口と、日本人は古来から、我欲や渇愛を窘める、自然と共生する、平穏を愛する国民性をもっているという、根拠のないナショナリスチックで、現実を何も解決しない、自己賛美の言説が幅を利かせ、何も生み出さない事態を招くであろう。それに悪乗りして、世を見るに敏な識者たちは我欲を乗り越える処方箋を色々提案することであろう。こういう茶番を繰り返していると、今回の震災から学ぶべきことは、私たちの視界からはるかに遠のき、ピント外れの議論で時間を費やすことになるであろう。原発はアメリカ製であったなどと、事故の原因を自分にではなく、他人のせいにする。我欲を乗り越えよという響きのいい似非知識人の忠告は何も生み出さないことだけは、心しておかなくてはならない。
 我欲は本当に天罰を招くのであろうか。我欲は、正義のもとで生きるにせよ、不正義のもとで生きるにせよ、人間の根源的な生きる原動力になっているように思う。核武装―我欲の最も醜い表象であろうーを最後に論ずる前に、我欲について私見を述べておきたい。我欲を正しく理解することによって、福島原発事故を乗り越える一つの知恵を見出せるように思えるから。

by rr4546 | 2011-06-14 14:38 | 日本人論 | Comments(0)