医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28

<   2011年 02月 ( 4 )   > この月の画像一覧

NZ地震―看護師の被災

 2月22日、ニュージーランドのクライストチャーチで地震があり26日現在、安否が判らない日本人が28人いる。20歳前後の若者が多い。被災者は新聞報道から見ると一名を除いて女性ばかり。先日、わが国は内向き志向の人が多いのではないかと嘆いておいたが、いやいや私の知らないところで世界を舞台に活躍したい人がこんなにいたのか・・。色々困難が待ち受けているにも拘らず、犠牲を払って語学研修に出掛けて、瓦礫の下で命を落とす。本人たちの無念さを思えば、いたたまれない。安閑と怠惰な毎日を送っている私に比べると、今回の悲劇がもし神様の仕業だとすれば、余りにもつれないことと、他人のことながら文句が言いたくなる。被害者の多くを出した語学学校の先生の奈良女子大で学ぶ娘さんも行方不明。ライフワークであるダニの研究を海外でも続けようと、留学していた元県立高校の校長先生も安否がわからないという。具体的な事例を聞けば聞くほど胸が一層痛む。女性が多いということであれば、当然看護師もいる。12名の現場でも信頼の厚かった看護師が語学研修中、当地で被災した。看護師という安定した仕事を中断して、海外での活躍を計画する心意気に深く打たれる。同業者として彼女らの夢を誇らしく思う。彼らが、現在の医療現場では十分能力を生かすことができないのを嫌って出掛けて行ったということでないことばかりを願う。
 現在、看護師は修士卒や博士号を持っている者もいる。彼らの能力が現場で生かされているとは言えない面があることだけは指摘しておく。

by rr4546 | 2011-02-28 16:58 | 医療関係 | Comments(0)
 先日、インドネシア人看護師候補316人とフィリッピン人139人のうち看護師試験に合格した人は2人と1人であるとの報道があった。これらの国からの看護師候補生は、3年間の間に看護師試験に合格すれば日本で看護師として仕事ができるという、それぞれの国と結んだ経済連携協定(EPA)に基づいて、確か祖国では看護師の資格を持つ人たちが日本にやって来たと記憶している。
 それにしても合格率の低さには目を見張らされる。私のところなどには、結婚後子育てのために20年以上臨床の現場を離れて、採血の仕方も初心者同様の危なっかしい技量の持ち主の看護師が職を求めてくるが、マニュアル化してある仕事内容と最低限の看護技術を3カ月くらい集中して教えると、大抵3カ月後には、自信を持って、私たちの重要なスタッフになってくれる。インドネシアとフィリッピンから来た若い向学心を持った優秀な若者が、3年間、臨床の現場でトレーニングと臨床の実際を経験して、20年間ブランクのあった看護師が自立できるように、自立できないとは私にとても思えない。
 彼女らが資格を取るために、越えなければならないハードルに、何か無理難題が仕掛けてあるのではないだろうか。平成の開国だ、TPPだと、どちらかというと井の中の蛙になりがちな私たちが、世界に羽ばたく国作りをしようとの現政権の目論見は、漢字文化圏とは全く違った国から、希望を持ってやってきた若者に対する杓子定規の仕打ちを見ると、絵にかいた餅のような気がする。私たちのような寛容な国民の心のどこかに、国際化に逆行する狭い心が宿っているのかもしれない。
 私は30年以上前に家族を連れて3年間弱、アメリカに出掛けて研究生活を送った。いまだに、英会話は中学生並み、英語論文はネーティブスピーカーに手を入れてもらわねば、さまにならない体たらくであるが、留学先の研究室から、4人家族がボスと同じように贅沢な生活を送り、研究の合間に南はマイアミ、ニューオルリンズ、北はナイヤガラ、カナダのロッキー山脈、東はニューヨーク、ボストンそして西はラスベガス、グランドキャニオンと観光旅行を楽しむ給料と自由が与えられていた。人生の中で最も輝いた時間を送らせてもらった。その間、英語原著論文3本をものにした。研究室はアジア系、東欧系、中東系そして黒人と多彩であった。好き放題の研究生活を送ったが、仕事の関係上帰ってきたすぐ後に、ボスからさらに給料を上げるから、早くアメリカに戻って来いとの直々の電話を職場にもらった。それにしても職場の連絡先をどうして調べたのだろうか。
 3年間働いて、インドネシアやフィリッピンに帰る若者たちは日本という国にどういう感想を持つのであろうか。日本では通用しなかったと故郷の人に報告するのであろうか。胸が痛む。
 それにしても、英語圏ならともかくも、アラビア語圏に出掛けて、3年間で向こうの資格を取って、向こうで働こうとの野心を持つ若者が今我が国に何人いるのであろうか。
 長友や本田やそして松阪がいるか。がんばれ。
 わが国の医療現場で、国際色豊かな医療人が私たちと一緒に働いている光景を一日でも早く見たい。それが日本の将来のためである。

by rr4546 | 2011-02-17 16:53 | 医療関係 | Comments(0)
 ご存知ない方も多いと思うので病気腎移植について今までの経緯を私の知る範囲で説明しておきたい。
 病気腎移植とは腎臓がんなどの患者から摘出した腎臓を、腎不全で透析を必要とする患者に移植する治療法である。宇和島徳洲会病院の万波誠医師を中心とするグループが「生体腎、死体腎移植に続く第3の道」として手掛けてきた。しかし2007年、病気腎移植が公になった時、日本移植学会などは医学的妥当性を否定し、中止の勧告をした。呆れたことをする人がいるとお偉方が会見していたのを思い出す。厚生労働省も2007年に原則禁止とし、万波医師の医師免許の取り消しの検討も行われたと記憶している。マスコミも変わった先生が、独りよがりな移植に取り組んでいるとのトーンで報道していた。しかし万波誠医師のグループは、自分たちの経験した病気腎移植の成績をアメリカの学会―詳細不明―に発表し、先進的な取り組みをしたと高く評価された。万波医師らを価値ある業績をあげた移植医として顕彰したとの写真入りの記事を週刊誌で読んだ。
 日本の学会は病気腎移植に否定的な立場を取り続けているが、厚労省は臨床研究については2009年1月に、「対象疾患に制限を設けない」と容認の見解を出した。万波氏の試みは社会的に認知された。官僚にしては先見的な対応をしたと思う。いや優秀な官僚の作った仕組みには、実に未来志向的で世界に誇っていいものが想像以上にある。彼らの勉強ぶりを、「公平・無料・国営を貫く英国の医療改革」という若い官僚の書いた本から知ることができる。そして宇和島徳洲会病院で臨床研究が続けられてきたらしい。万波医師の腎不全患者を透析から解放しようとの、並々ならぬ熱意を感ずる。そして臨床研究として、患者から切除した病気腎を今年4月までに4例を移植したという。今回、学会に応募した演題はその成績を世に問うものであったのであろう。そして門前払い。
 演題が不採用になった理由を、松山市のNPO法人「移植への理解を求める会」(向田陽二理事長)は第44回日本臨床腎移植学会に問い合わせ、学会から回答があった。
 回答文書は日本臨床腎移植学会の高橋公太理事長と市川靖二第44回学会長の連名で、「応募演題が多く、(演題を発表する)学術集会が実質的に2日間と短い。時間の制限があり、学会員の演題を優先した」と不採用の理由を説明した。
 求める会の事務局長は「修復腎移植にかかわる論文が(徳洲会グループとともに)2件とも不採用になったのは理解し難い」と批判。学会に対し、発表の機会と議論の場の提供を求める要望書を郵送したと新聞にあった。頑張れ!
 私は先進的な医療に取り組む際は、医療にはいつも倫理的側面があるので、自分一人の判断ではなくて社会の合意を得る努力をした後に取り組むべきことだけを指摘した。「俺の思っていることだけが正しい」だからついてこいという思い上がりはテロリズムに結びつくことを指摘した。自分が正しいことは善意から出ているので、社会の合意はいらないという態度でことを勧めると、ジハードを叫んで自爆テロに走るムスリムの人たちの反民主主義的なテロリズムとどこも変わらない。どちらが思い上がっているのであろうか。私は専門外であるが、将来、万波医師の試みのすべてとは言わないが、彼の試みは臨床的に有意義だと評価されるような気がする。それを専門家たちで議論してもらいたい。
 専門家集団である医師たちが、自分の権威を守るためではなく、患者のためになることであればあらゆる可能性に目を開く集団になることを心から望みたい。専門家集団こそ広い視野を持って、医療に取り組んでもらいたい。権威のある学会のお偉方でも、凡人である私たち同様に、過ちをおこす可能性はいつでもある。

by rr4546 | 2011-02-08 15:34 | 医療関係 | Comments(0)

病気腎移植 Ⅰ

 先日、万波誠医師らが実施している病気腎移植の研究成果の発表が、第44回日本臨床腎移植学会から不採用とされたとの新聞報道に接した。どうして先進的な試みが医学会で議論されないのだろうか。残念である。以前、病気腎移植に触れたことを思い出した。

何故人を殺してはいけないのか?
 大分以前のことで詳しい経緯は忘れましたが、子供のテレビ討論会でごく普通の少年が「何故人を殺してはいけないのか」と問い掛けました。突拍子もない問いに対して女の子が中心だったと思いますが「自分が殺されたら悲しいではないか」、「殺された家族の人たちの苦しみを想像しなさい」、「殺人は罪である」等とよく理解できる言い分で猛烈に反論して、議論は白熱しました。非難する声が優勢でした。しかし少年は何一つ得心できないという表情のままでした。
 その後、少年の問いに結構多くの知識人が反応しました。本を書いた人もいたようです。内容については何も思い出せません。今浮かんでくるのは、人気のあったテレビキャスターT氏が「国家は合法的に殺人をしているしね・・・」と、少年の言うのはもっともではないかというニュアンスでコメントしていたことくらい。知恵遅れの子を作曲家に育てたことを誇りにしているノーベル文学賞受賞者O氏もエッセイか何かの中で「人間以下の質問です」という言い方でやんわりと切り捨てていました。この問い掛けをした少年は、今は若者になっているでしょうが、いまだに何故人を殺してはいけないのだろうかと自問しているように思います。
 なぜ人を殺してはならないのか大人が論ずるような高尚で哲学的なテーマとは思いませんが、この問いに関する記事が結構マスコミを賑わせたのは、私たちのような生き方をしているものにとっては、真正面から反論できない何かが少年の問いかけにあるのでしょう。
 この珍現象はアブラハムとは全く異なる私たちの持っている人間観が深く関係しているように思います。アブラハムは自分と神の力とで生きていると了解しているのに反して、神を持たない私たちは自分の知性と理性にだけ頼って生きていくしかないと考えています。アブラハムは自我を批判的に眺めるもう一つの視点を持っていますが、私たちは自我の中の自問自答でしか自我を批判できない。自我を完全に否定できるものと、できないものの違いのような気がします。
 アブラハムは不可知な他者に対して従順になる謙虚さを持っていますが、私たちは自我の思いを第一にして不可知な他者を抑圧し排除する。いつも主役の立場でいないと落ち着かない。アブラハムは神中心主義であるが、私たちは望むと望まないに拘わらず自己中心主義である。神の思いは、自分の思いと離れていると考えるか、近いと考えるかの違いです。ともあれ生きる基準を訳けの判らない他者に置くのではなく、自分に置こうとします。アブラハムのようにいるかいないかも定かではない、見えざる神に生きる基準を置くことは出来ません。
 自分の思いでこの世を生きていくしかないと考えるものが、もし人を殺したいと欲望した時一体どういうことが起こるのでしょうか。このような邪悪で破壊的な欲望を持つことは稀でしょうが、人間のことですからどんな欲望もありだと思います。スカートの中を覗き込むことから、人間を切り刻むことまで、いやカラマーゾフ一族のように、物欲と淫蕩さと名誉と権力欲に駆られて愚かな振る舞いに及ぶ事件は現在、日常的に見られるようになりました。偽装、捏造も私たちの得意とするところです。自分のことを冷静に振り返ればよく理解できるのではないでしょうか。
 そして少年は人を殺してはいけない理由を見失いました。見付けることができませんでした。
 私の答えは簡単です。人間は自分の欲望だけでこの世に存在しているのではない。今まで繰り返してきましたが、人は自分の描く秩序と、関与できないもう一つの大きな秩序、遺伝子の力、種の圧力あるいは神のご計画の大きな秩序の二つの秩序の下で生きている。二重の拘束を受けています。
 殺していいかどうかと問い掛けられれば、人は自分の倫理規範と同時に、共同体の一員としての倫理規範の二重の拘束を受けていることを説明すれば、正解が得られるのではないでしょうか。人間は小さい自分の倫理規範だけではなく、共同体の倫理規範も大切にしなければならない。いや優先しなければならない。アブラハムが自分ではなく神の秩序に従順だったように。個の尊重より公を重視せよ(改正教育基本法)という最近の風潮とは違ったことを言っている積りですが・・・・。アブラハムは草・木が自我ー草・木は自我もないかーに拘るのではなくて、大きな自然の秩序の下で当たり前に生きているように、すべて生きとし生きるものは大きな秩序を優先して生きるのが生きる道理であることをよく知っていました。人に譲ると言いながら、自分の考えることにしかより頼まない屈折した生き方とは違う。無理をしていないのです。
 友人の弁護士T氏に「君の後輩でもあるU教授がたびたび手鏡でスカートの中を覗いて逮捕されているが、あんなことが罪になるの?趣味が悪いだけと違うの?」と尋ねてみたことがありました。私にはどうしてそういう衝動に駆られるのか全く理解できませんが、覗かれた本人は知らないわけですし、やる方も隠れて手鏡を悪用するだけだし・・・。しかし即座に「迷惑防止条例」で犯罪に決っていると教えてくれました。U教授も少年と同じように自我だけが肥大化させて、自我だけを拠りどころとして生きていけると錯覚し本来尊重すべき共同体の倫理規範を忘れてしまったのでしょう。生きている道理を見失ったのです。アブラハムが自覚したように、関与できないというのか、制御できない大きな秩序の中で人は生きており、人はその秩序に従うほかないことをしっかりと学ばなければなりません。
 私たちは自我と大きな秩序の二重の拘束に気が付いた時、アブラハムのように即座に支配できない大きな秩序に従うことを選択しないで、どちらに従うか自問自答しているうちに、好むと好まざるに拘わらず、小さい自我、欲望に従って生きてしまうのでしょう。私たちは見えない上に、存在するかどうか判然としない、しかも何を語っているか聞けないものに従うという思考様式や行動様式を持っていません。
 しかし人は自己の倫理規範と共同体の倫理規範の二つの拘束の下で生きていることに正しい洞察を持たなければなりません。
 病気腎移植事件も同じことを語っているように思います。医療に携わりながら人工透析をしている人がこんなに健常な腎臓を望んでいることを知りませんでした。脳障害や心臓疾患、いやどんな病気にせよ、意識を失い意思表示ができない状況が生まれれば、医師がどんな楽観的な見通しを言おうとも、蘇生処置を望まない、自然の成り行きに任せて欲しいと私は遺言していますが、腎臓が使えるようであれば提供するということを付け加えました。
 M医師は自分が正しいと信じることだけに基準を置き過ぎて、共同体の合意を得ることに対して配慮を欠いている。自分を信頼しすぎて、大きな秩序に思いを馳せないというのは私たちの共通の弱点を持っているように思います。M医師も万能ではありません。一人で善意に燃えて頑張り過ぎて、共同体の倫理規範から見ると問題があると考えられる過ちをしていたのかもしれない。少年と頭の構造が同じような気がします。
 過ちを最小化するためにも、人はダブルバインドの下で生きており、いつも自分より他者に耳を傾けるべきであるという謙虚さが求められていると思います。社会から意見を求めるべきでした。
 神や仏になれると信じているもの(麻原彰晃のようなオウム真理教の信者、本覚思想原理主義者等)や真理や道徳や客観的価値を信じないニヒリスト(イワン・カラマーゾフ等)はどんな倫理にも制約されません。すべてが許されています。U教授や少年はどちらに属する人たちなのでしょうか。いや私たちは少年を充分批判できなかったのですから、正気でありながら、狂信者や虚無主義者のように、欲望だけしか生きる拠り所がないのかもしれない。支配できない不可知な他者に耳を傾ける習慣を育てなければならないように思います。唯我独尊では新しい世紀は生きていけない。
 共同体の中の規範を忘れて個の規範だけに頼る習慣を持っていますので、柔道、剣道そして相撲という個のスポーツを国技として育ててきたのでしょう。色々制約の多い集団スポーツを楽しむことをしなかった。現在は自分たちが作り上げた積りになって、集団スポーツである、野球、サッカー、ラグビーを楽しみますが。将棋や碁も同じことでしょう。個の能力を最大限に発揮して戦うのを喜びとしています。縛られるのが嫌いです。
 個人主義が異様に発達して、弱肉強食が貫徹していると思われる恐ろしい国が、自分のやりたい事をがんじがらめに縛る集団スポーツである野球やアメリカンフットボールを国技としていることの意味を過小評価してはならないと思います。アメリカンフットボールなどはユダヤ人が考えたに違いない、と思えるオフェンスやデフェンスの役割分担を事細かに決める規範だらけのスポーツで、個人の能力を信じて戦いたいものには親しみ難い。攻撃も一人で突進できるのは稀です。フォーメイションといって多くのものがある指示の下で力を合わせて敵陣に攻めてやっとのことで得点できます。神の支配の下で皆が力を合わせて生きていくのをイメージして作り出したと思います。お陰で受験勉強の得意なものが入る大学でも一部リーグで活躍できるらしい。(一神教的思考様式を学ぶー創世記― 創世記 第2章 アブラハム物語 4.二重の拘束 何故人を殺していけないのか?(p90-94))
続く
病気腎移植 Ⅱ

by rr4546 | 2011-02-07 14:51 | 医療関係 | Comments(0)