医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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 死ぬ場所だ、死の定義だと縁起でもないと多くの人は思われるであろう。不老不死のために働くのが医師の努めであると抗議される方もおられるであろう。しかし老いや死から目を逸らしていても老いや死は必ずすべての人に訪れる。高齢者になればその準備をしておかないと、自分の尊厳が傷つけられるような最期を迎えることがあることは知っておくべきであろう。そこで今回から私たちにはどのような死に方があるかについて論じておきたい。死に方といわれても差し迫っていなければあまり考えたくないと思われる方も多いと思うので、死とは全く無縁に生きている人たちのいるところを先ず紹介しておきたい。
 一つの時代に数人死なない人間が生まれる国「ラグナダ王国」の話がスウィフト作「ガリヴァー旅行記」に描かれている。不死は必ずしも目指すべきことではないかもしれないことを「ラグダナ王国」の人々を見ていると感じさせてくれる。
 「不死人間の噂を耳にし、最初、ガリヴァーは大いに羨ましがります。死の恐怖と無縁でいられる本人はもちろん、各時代の知恵や知識の宝庫である先達がそばにいてくれるなんて、この国の人々は何と幸せなんだろう、と。ところがラグナダ人たちは不死人間を忌み嫌い、自分の身内から不死者があらわれないよう願っている。
 不死人間と会ってみて、ガリヴァーもその理由がわかりました。彼らは不死ではあるけれど、不老ではなかったのです。味覚も記憶力も好奇心も愛情も、生きる喜びすべてを失い、世間から厄介者扱いされながら、老いさらばえた体でただ生き続けるだけ。病気になると重くも軽くもならず、だらだらと一定の症状が続きます。完全にボケてしまえばまだましで、そうでない者たちは死にたくても絶対に死ねないことに絶望して、人間がもっているありとあらゆる愚かさや醜さをとことんとさらけ出してしまう。
 ラグナダ王国では、不死人間たちも一般人の最高齢である八十歳に達すると法的には死んだものとみなされます。仕事も、賃貸関係も、裁判で証人になることもできなくなり、財産があればすべて子供に譲らされる。ごくわずかな生活費以外に与えられるのは憐れみだけで、軽蔑と憎しみと恐れの対象でしかありません」(加賀乙彦 不幸な国の幸福論)。
 不死を願うことの意味を色々考えさせてくれる。
 「もし現実に死なない人間があらわたとしたら、それがどこの国であろうとガリヴァーが風刺したような事態が起こるのではないでしょうか。
 不死に加え不老であったとしても、やはり幸せとは思えません。老いて死ぬ定めの人間と不老不死の人間がいれば、当然のことながら両者のあいだに争いが生じます。かと言って、すべての人間が不老不死になれば地球は人であふれ、環境が破壊尽くされ、やがて限られた資源の奪い合いがはじまるのは目に見えています。・・・・・
 永遠に続く生に、果たして人は退屈せずにいられるでしょうか。愛情や友情、何かに対する関心や意欲を持続できるのでしょうか。決して死なない人間に、命の尊さや生きていることの喜びを感じられるでしょうか。親から子へ、師から弟子へと受け継がれていくものの重みがわかるでしょうか。・・・・
 死によって命を限られていることもまた、人間に与えられた恵みだと思います」(同上)。
 避けることのできない死に対して私たちはどのような準備をしなければならないかも、高齢者に課せられた大切な大仕事といっていいであろう。

全く話が飛ぶが、民主主義は一部の地域の民意を聞くことではない。軍事基地をここにといって民意を聞いて、民意が賛成でまとまることはないであろう。民意を聞いていたら、すべてが自分の都合のことばかり言い張って戦争状態(憎しみ合う)になることを防ぐために、民に選ばれたリヴァイアサンが国民のために決断することが民主主義である。同盟とは都合の悪い時だけ、グアムから助けに来てくれる関係ではない。同盟とは番犬を雇うことではない。この発想こそ奴隷の思想である。同盟とは同じ価値観を共有して、その価値観を実現するためにともに汗を流すことである。何を守り何を育てるためどの仕事を分担するかをを確認することが同盟関係である。空を飛ぶ仕事と洞窟の探索と分担する仕事は異なることがあるであろう。空を飛ぶ仕事が偉くて、洞窟の探索が卑しい仕事ではない。どの仕事も尊重し合わなければ実りある同盟関係は出来上がらない。目指す方向の展望が開けない。核戦力の司令官になることが偉いわけではない。民生支援が偉いわけではない。ともに大切な仕事である。抑止力とかアメリカの都合も聞いてという発言ばかりを聞いて本当に残念。指導者は同盟国と何を目指すのかを語らなければならない。目指すものがなければ同盟関係を破棄しなければならない。私たちはもっと成熟してグローバルな難問解決のために色々な同盟国と力を合わせて貢献しなければならないと思う。こんなことは「一神教的思考様式を学ぶー創世記ー」に精一杯書いたのだが。

by rr4546 | 2010-01-28 14:25 | 医療関係 | Comments(0)
 心臓死と梅原氏が言うのは心停止のことをいっているのであろう。梅原氏に言わせると心臓死を日本人だけが死の判定の根拠としてきたことになるが、日本人以外の民族も脳死という概念が導入される以前に、心臓が動いている間に死の判定をしていたとは思えないし、また心臓が止まっていても生きていると主張していたとは想像できない。心停止は長い間人類全体にとって死の証拠と考えられていたであろう。
 確かに臓器移植という医療行為を切っ掛けとして脳死という言葉が人口に膾炙するようになったのは事実であろう。しかし臨床の現場に生命維持装置が持ち込まれて以来、心臓は動いて呼吸はしているが、治療を行っても数日のうちに確実に全臓器が死に至る場合があることを医療現場を預かる医師は知っていた。死は心停止の時に瞬間的に成就するのではなく、あるプロセスを経て完成することを医師たちは自覚した。
 死は心停止という極めてわかりやすい状況で瞬間的に起こるのではなく、いろいろなプロセスを経て完成する。脳死はわかりやすく言えば、不可逆的な死のプロセスの現段階での私たちが確認できるもっとも早期の出来事と言うべきである。そして脳死(あるいは脳幹死)を死とするコンセンサンスが得られ、多くの人たちは脳死を死と受け入れた。死というと心臓停止のことだと思い込んでいた無知な時代を医学的知識を積み上げて人類は一歩前に進んだのである。
 実際日本でも心臓死を死と考えていても、心停止後に腎臓や角膜は生きていていることを知っていて、心停止後に腎臓や角膜を移植用に摘出していた。心停止後も生きている臓器は多い。繰り返すが死はプロセスである。
 死という客観的な事実を医学的な知識が皆無なものが軽々に論じると無知から来る滑稽な根拠を拠り所にして死だと言い張る愚を犯す。梅原氏は死という生物学的なプロセスも哲学者にも判断させよと言っているに等しく、何か勘違いされているように思う。しかし氏の声は大きい。そして二つの死があった。このための混乱が今でも医療現場では起こっている。死と判定しないで臓器を摘出していた。
 脳死は1。深昏睡、2。自発呼吸の喪失、3。瞳孔固定、4。脳幹反射の消失の条件がそろい、5。30分以上脳波が平坦である状態が6時間続いて変化がない場合を脳死とすると現時点では定められている。私は医師でありながら、脳死については素人同然の知識しか持たないが、あらゆる治療を行っても確実に全臓器死する状況があり、専門家が全臓器が死滅するプロセスの最初の段階を脳死とすることに対して、まだ体が温かいとか、心臓が動いているので死んでいるとは思えないと言い張る気はない。身内の人の気持ちは痛いほどよく理解できるが。死の判定に対しては医学的に取り組んだ人の結論を尊重したいと思う。
 幸いなことに二つの死があったという平成9年以来の異様な状況は、昨年7月13日、脳死を一律に「人の死」とする改正臓器移植法が成立して解消された。
 問題は医療現場で脳死を判定するところは必ずしも多くないことである。そして二つの死があるという主張に惑わされて、体が温かいとか心臓が動いているので最善の治療をとご家族の方が願われる。そして死んでいるのに、生命維持装置は取り付けたままで、医療処置が続けられるのが今の医療現場の一般的な実情であろう。
 高齢者の死ぬ場所はお迎えが来ているのにそれでもそれに抗って医療の真似ごとをするところではない。

by rr4546 | 2010-01-22 16:21 | 医療関係 | Comments(0)
 高齢者が大往生するための一つに老健施設があることを症例を交えて論じてみた。順序が逆になったが私たちが何をもって「死んだ」と判断するかについてはっきりさせておかなければ、望ましい死ぬ場所についていくら議論をしても隔靴掻痒の感は拭えないであろう。老健で十分医療処置を受けたのだろうか。大往生といっても医療を受けた上での死であったのか、大往生といっても本当に天寿を全うしたといえるのか、いずれも主治医の恣意的な判断が優先されて、客観的に天寿を全うしたといえないのではないか等、いくらでも疑問が出されるであろう。
 1990年臓器移植という医療を日本でも根付かせようという動機を切っ掛けとして政府肝いりで脳死臨調がたち上げられた。この委員会では奇妙なことに日本では心臓死と脳死の死の二つの死があるとの結論が出された。それ以降現在に至るまである人は心臓死で死の判定が行われ、ある人は心臓が動いている状態でも死の判定が下されていたという矛盾した奇妙なことが、現場では行われてきた。
 この際心臓死を死とすべきであるという主張を先導したのは縄文哲学者梅原猛氏である。「心臓の停止が死である。脳死という状態が限りなく死に近いにせよ、やはりそれは生なのである。それが生であるからには、臓器を取り出して、その人をして死にいたらしめるのははっきりいって殺人行為である。この殺人行為を近代医学の名において合理化し、その罪悪を隠蔽するために脳死という概念が発明されたのである」(脳死は死ではない 梅原著作集15 p538)。心臓死を日本人は古来から死と考えてきたと念を押されて、この一見明快な主張に反論できる人はいないであろう。そして脳死を死と考え、機械の部品を取り換えるような身体の部分を取り換えればよいという人間機械論を考え出したデカルトを厳しく批判した。そして日本人は日本人の倫理観では臓器移植を前提とする脳死を死と認めるわけにはいかない。私たちにはわかりやすい梅原氏の「死の定義」を拠り所にして、現代医学では死んだと判定される者にも医療行為が積極的に行われるという異様な医療現場を生み出した。
続く

by rr4546 | 2010-01-18 17:19 | 医療関係 | Comments(0)

迎春

迎春

昨年は孫たちのためにと「一神教的思考様式を学ぶー創世記」を自費出版しました  献本と押売り以外、丸善から一冊だけ売れました 今年は「高齢者医療のイロハ」と題する臨床に役立つ本を書き上げたいと思っています 出費ばかりを重ねて周囲のものを呆れ返させています

本年も皆様にとってよき年になりますようお祈りいたします

平成二十二年元旦

by rr4546 | 2010-01-05 13:47 | その他 | Comments(0)