医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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 2,3歳の知能指数で基本的な日常生活もできなくなった重度のアルツハイマー型認知症患者に対してわが国では有難いことに医療で対応できる仕組みがある。
 今までも繰り返し触れたが、アセチルコリンという神経伝達物質を壊す酵素を阻害して体の中のアセチルコリンを高め非生理的に無理やり神経細胞を働かせるアリセプトが重度の認知症患者にも一般的に使われる5mgではなくて10mgまで保険診療で投与できるようになっている。多くの患者が服用しているであろう。
 投与の目的は進行抑制。着衣、入浴そしてトイレも自分でできなくなった状態の進行を抑制する。うむ・・・・。着衣、入浴そしてトイレが少しでも自分でできるよう改善されればアリセプト投与の意義が理解できるが・・・。そういう効果は全くない。アリセプトには変性死滅した脳細胞を元通りにしたり、死滅していく過程を止めたりする作用がないので止むを得ない。繰り返すがアリセプトはアセチルコリンを上昇させて無理やりコリン作動性神経細胞を興奮させる働きがあるだけである。講演会に出掛けるが重度の認知症の治療のためにアリセプトを投与する意義を私が納得できる形で説明してくれた専門家はいない。先日聞いた講演会でも元気になって喜ばれたと、進行抑制とは違った理由で10mgアリセプト投与の意義を強調していた。
 患者に不利益だと思うので、ほとんど語られることがないアリセプトの副作用について触れておく。薬には効果もあるが当然副作用もある。アリセプトによって非生理的に体の中で上昇したアセチルコリンは体中のコリン作動性の神経細胞を興奮させる。上昇したアセチルコリンは副交感神経を刺激して食思不振などの消化器症状や徐脈や心ブロックなどを招来することがある。無理やり上昇させられたアセチルコリンはこちらの思惑とは違って体のどこでも働く。当り前であろう。薬の効能書にも10mg投与で44.3%に副作用が有ったと記載されている。二人に一人に副作用が認められる。
 その中で基本的日常生活が不便になった患者にとって看過できない副作用を紹介しておく。コリン作動性神経細胞の興奮によって引き起こされると考えられているパーキンソン症状が出現することがある。判り易く言えばアリセプト服用によってよちよち歩きが惹き起こされる。認知症の進行に伴っても歩行障害が出現する。アリセプトによってその歩行障害が増悪される可能性がある。しかも歩行障害が薬によるものか、認知症の悪化によるものか見分けることはできない。アリセプトを中止したら歩けなかった患者が手引き歩行できるようになった症例によく遭遇する。
 コリン作動性神経細胞は記憶回路に多く存在するが、記憶回路には高等な感情を司る前頭葉も一部含まれるのでアセチルコリンによって前頭葉が刺激されて易怒性、不穏、焦燥感、介護拒否などのパーソナリティーを変化させる精神的ならびに行動障害(陽性症状)を起こすことがある。私たちの経験ではアリセプト服用 患者の80%に薬剤起因性と思われる精神的ならびに行動障害が認められた。
 重度の認知症に高容量のアリセプトの投与が保険診療で認められた際、医学的メリットについてどのような議論がされたかを知りたくてE製薬会社の東京本社に問い合わせた。一編の論文が送られてきた。担当者は高度の症例では服用ができなくなるまで投与していただいているとのことだった。蛇足だと思ったが、貴社のパンフレットにアリセプト投与で精神ならびに行動障害の陽性症状が出たら、陽性症状治療薬の投与を考慮すると書いてあるが、どんな薬を使うのか聞いてみた。現在日本で保険診療では認められていない抗精神薬を数種類上げた。投与する際どういう病名を付けるのか。保険診療上、薬の副作用防止のためにそれらの薬を投与していいのかも聞いてみた。先生方に任せてあるとのことであった。
 一般の方はご存じないが、日本では国民皆保険で治療は保険で認められている治療しか行えない建前になっている。未承認の薬と承認されている薬の両方を投与して保険診療は行えない。未承認の薬を使う場合はその際行った保険診療まで全額自己負担になる。混合診療は原則的に認められていないのである。私もその辺りの詳細をよく知らないので誤解しているかもしれない。
 アリセプトを投与して陽性症状が出て的確に治療をすれば、主治医は事実でない病名を付けて保険請求するしかない。重度の認知症治療の際は健康保険診療の建前を破壊するようなことを行わなければならないことがあるのである。
 なぜこのような患者だけでなく家族を困らせる副作用があまり論じられなかったのであろうか。外来で認知症患者を見たり、あるいは患者の家族の報告だけで薬の処方をしたりしている専門家は、私どもの観察した副作用を見落としているのかもしれない。患者を見ないでどこか別な所を見ている。
 易怒性、攻撃性、不穏そして歩行障害の増悪を外来で観察することは必ずしも容易ではない。認知症患者を外来で見ることの問題点は以前にも指摘した。
 それにしてももう少し認知症外来を充実させなければおちおち認知症になっていられない。
 いや認知症が医学の対象になること自体不思議である。原因はまだ解明されていない。しかし認知症の臨床的症状は十分に明らかにされている。認知症患者は病識がなく短時間でコミュニケーションを取ることはできない。薬はアリセプトしかない。しかし病状は確実に進行する。本当に認知症外来などを大学の偉い先生や、優秀な若い先生が真面目に担当するに値するのであろうか。認知症に対して医学的に取り組んでいる先生の喜びは一体どこにあるのだろうか。それにもかかわらず高名な先生は講演の最後にぜひ患者を紹介してくださいと自分の外来予定表を配るのが常である。
 2,3歳の幼児に帰った人の知能指数の悪化を緩徐にするために、歩行障害、易怒性、焦燥感を惹き起す可能性のある薬の投与の意義についてもう一度皆で真剣に考えなければ、よき高齢者社会など作ることはできないように思う。
 書いてる方も読んでいる方も気分が悪くなることばかりであった。アリセプトが認知症の特効薬であるかの如く宣伝している製薬会社に、会社のためにも、無理やり上昇させたアセチルコリンが色々な副作用を出すことに触れておいた方がいいと助言した後の会社の対応についても後に触れる。道徳的に荒廃しているとしか言いようのないものであった。これでは認知症患者が浮かばれない。
 高齢者の医療についても国民一人一人が真剣に考えるべき時であろう。裁判を司法関係の専門家だけに任せるのではなくて、国民一人一人が考える時代が来ている。私たち一人一人が賢くならなければならない時代である。当然医療についても医療関係者だけに任せるのではなく、国民一人一人が望ましい医療について意見を持たなければ、医療はよくならない。

よき高齢化社会のために  No.13 認知症に対する介護
続く

by rr4546 | 2009-04-25 18:41 | 医療関係 | Comments(0)
 アルツハイマー型認知症は以前にも述べたように大抵は短期記憶障害で始まり、2、3歳の知能指数しかない幼児と同じように着衣、入浴、トイレなどにも介助が必要となる段階へと悪化していく。このような進行性の臨床症状を私たちは便宜的に軽度認知障害(MCI)、軽度、中等度そして重度あるいは高度認知症とステージングして患者を観察する。
 老健には主に重度の段階と呼ばれる、日常生活にも介助が必要となった高齢者が多くおられる。語彙が少なくなり、言語的コミュニケーションが十分できないが、かといって感情のない植物人間の集まりではない。患者さんには個性があり、人懐っこい人、怒りっぽい人、余り喜怒哀楽を表わさない人、スキンシップを好まれる人、肌を触れれば目をむく人など様々で、私は一人一人とのコミュニケーションを楽しんでいる。私を御主人と間違えていた人が突然「先生」と呼びかけてきたりして、毎日驚きの発見で日々新たな事を学んで新鮮である。病を背負っておられるが極めて人間的な人たちばかりである。
 テレビなどで老健施設の風景を見ると、車椅子に乗ったボケ爺さんボケ婆さんばかりで異様な所のような印象を持つが、実際体験すると私には立派な人たちとの会合の場の方が本当かいなと驚くことばかりで、老健施設はごく当り前な人間のコミュニティーだと感じる。実際彼らが感情豊かであることを色々な場面で見ることができる。例えば介護士の個性によって、患者さんたちの反応も全く違っている。朝のラジオ体操も皆がニコニコしながらしている日と、つまらなさそうにしている日があり、成程なと学ぶことは多い。
 知人達が訪ねたりしてくると、必ず施設の中を案内するが皆それぞれが自由に振舞っているので「ボケてもまんざらではない」などと妙なことを安心されるのでこちらが吃驚する。
 現在根治療法のない、重度のアルツハイマー型認知症に対して私たちのできることに何があるのであろうか。
1.介護を受けないで少しでも日常生活が送れるよう工夫すること。
2.穏やかに日常生活が送れるような環境を作ること。
3.重度の認知症の患者は記憶障害、失認、失行などの必ず出現する中核症状に加えて、攻撃性、妄想、徘徊、不潔行為、昼夜逆転などの行動・精神症状(周辺症状)が出現してくる。患者自身だけではなく家族の方も苦しまれる。その症状を取ること。
 などがあるであろう。治してあげたいが現在治す方法がない以上やってあげられることは限られている。
 介護の対象になる典型的なケースと言っていいであろう。しかし現在重度の認知症に対しては私から見れば、患者の尊厳を傷つけているのではないかという医療がかなり広く行われている。実際の医療の現場の紹介とその問題点を指摘して重度の認知症と私たちはどう付き合っていくべきかを考えておきたい。私の愛する認知症の患者が患者を診ないで製薬会社の方ばかりを見ているとしか思われない医師に弄ばれてはならないと感じるからである。また重度の認知症患者と私たちがどのようなヨミュニティーを作っていくべきかを考えることは、よき高齢者社会を作るヒントに溢れていると思う。

続く

by rr4546 | 2009-04-16 12:04 | 医療関係 | Comments(0)
 現代医学でも治せない病気は本当に多い。根治が期待できる疾患と根治が期待できない疾患に対するアプローチは同じなのであろうか。このアプローチの違いを区別しないと患者のためにと奮闘していても、患者の尊厳を損なうことがある。
 この辺りも素人の方はよくお分かりにならないと思うので、身近な例で私なりの説明をしておきたい。
 神経筋難病と呼ばれるパーキンソン病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)そして進行性筋ジストリフィーなどは多くの方もご存じの通り有効な治療法がなく進行性で、末期はかなり悲惨である。アルツハイマー型認知症も進行性で有効な根治治療法がなく最終的に人格が廃絶するという点ではこれらの神経筋難病と同じ範疇に属する疾患と言っていいであろう。Aging(加齢、老化と言ってもいい。これから色々な呼び方をする)も広い意味では根治治療法のない疾患に分類していいと思う。残念なことに医学の面から現在ではあまりお役に立つことはない。
 私たちは有効な治療法がなく、日常生活に障害が出る疾患に対して介護というシステムを考え出して、ハンディキャップを背負っておられる方が穏やかに生活できる工夫を重ねてきた。患者が満足されているかどうか知る由もないが、多くの患者さんは最後まで意識は清明でコミュニケーションが取れるので、彼らの意志を最大限に尊重しながら色々なツールを開発してきた。宇宙物理学者でALSを患っているホーキング博士が眼球の動きだけで、宇宙開闢理論を講演する姿を見られた人も多いのではないだろうか。人間も捨てたものではないとしみじみと思う。
 介護というのは消極的な意味ではなく、ハンディキャップを持った方の生活支援を医療、介護そしてリハビリのスタッフの協力のもとで行い、その人らしさを発揮できるよう支えるシステムである。医療のように悪いところを取り除こうというシンプルな理念に比べると極めて人間らしい成熟した理念のもとで行われる総合的医療行為と言っていいであろう。悪いところを取り除く現場と、悪いところを抱えたまま生きていく人たちのために働く現場の両方で働いた経験のある私には、医療と介護の違いがよくわかる。
 ただ老化(根治治療がない疾患)を治療(cure)の対象にするべきか、介護(care)の対象にするべきか、何も考えないで高齢者医療に一生懸命取り組んで、知らぬ間に患者の尊厳を傷つけてしまっているのではないかと思わされる事例に度々遭遇して愕然とさせられている。
 介護という総合的医療行為に初めて接した経験をお話ししておこう。
 30年以上前にアメリカで血液学研究をしていた時、高齢者がNURSING HOMEと呼ばれる所で生活しているのを知り向こうのドクターと話し合った。老化や認知症のような根治療法がない患者を医療の対象にするのか、介護の対象にするのか医療界、患者団体、宗教界の人たちが真剣に議論して当面、老化は医療の対象にしないとのコンセンサスが得られHospitalと違い生活支援を目的とするNURSING HOMEという介護施設が作られたことを知った。多くのボランティアが働いていた。そのせいでもあるまいが私たちが使っている介護理論の多くはアメリカから発信されたものである。
 根治できないしかも進行性の老化を医療の対象にすると不必要な検査や過剰な薬の投与が行われ、患者のQOL(生活の質)を損なうことがある。根治治療が開発されるまでは、QOLを改善する方向で努力するというのがNURSING HOMEが作られた理念であった。老人施設が充実している北欧をはじめ、日本が介護保険制度を参考にしたドイツでも同じように議論が行われたと聞いている。
 ここで一言いっておくが、高齢で社会のために貢献しなくなったので、医療はお粗末のままにして姥捨山のようなところに閉じ込めておくなどという発想は彼らには全くない。いや心の隅にそのような思いがあっても、彼らのような文化的背景を持っているところで高齢者の尊厳を損なう対応をしたら社会から絶対に支持されない。実際NURSING HOMEでもQOLが徹底的に考えられ、色々な分野の人が議論を重ね、最善の医療が行われていた。30年前の話で現在どうなっているか知る資料は手元にないが、望ましい医療を行いながらハンディキャップを持つ高齢者を介護しようとの理念が後退したとは考えられない。
 私たちも世界のトップを走って根治できない老化という病を抱えた多くの人を輩出することになった。そしてドイツ方式を丸々取り入れて介護保険制度を立ち上げ、箱ものだけは諸外国に比較しても遜色のないものを作った。
 この際なぜ私たちが介護というシステムを必要とするかについて誠実に議論をしなかったのであろうか。ちょっと立ち止まって考えるだけで、今のような荒廃した高齢者医療の現場を作り出すようなことはなかったとしみじみと思う。人として叡智を磨き、成熟する格好の機会を十分活用しなかった。
 例えば介護システムを国民のために作ったお役人が医療費の節減のために介護施設を作ったと発言する。介護施設で働く医療関係者も十分医療ができない、できないと嘆いてばかりいる。そしてマスコミをはじめ国民の多くも介護施設は高価な薬が投与されないところうであると信じている。現代の姨捨山というわけである。何か背筋の寒くなるような光景ではないだろうか。
 家族を入れたり、いや自分が入らなければならない時に、そんな恐ろしいところうに入れたり入らなければとしたら身も竦むと思うが、介護施設では十分な医療が受けられないという神話は我が国では当然のこととして受け止められている。残酷な話である。介護施設では貧しい医療でいいということに異議申し立てをしないのは、私たちが人の尊厳に対して確たる思いを持っていないことを示しているのかも知れない。先進国で介護施設が十分な医療を提供しなかったら国民から厳しく糾弾されると思う。
 高齢者とか、不治の病を抱えた社会的弱者に手厚く対処すると、お金の無駄遣いのように感じがする。しかし不思議なことにヒトラーがとった精神障害者、身体障害者そして不治の病を抱えた人を社会から切り捨てる優生思想的な社会運営は当座は無駄な出費が節約できてうまくいくように見えるが、結局は社会全体を精神的にも倫理的にも荒廃させた。
 なぜ優生思想が社会を破壊するのか私の教養では十分説明できないが、高齢者をぞんざいに扱う家庭と、春の日差しを肌で感じるとすぐ身内を散歩に連れ出す家庭とでは、精神的な豊かさが根本的に違っているように感ずる。笑顔の美しさが違う。病を背負った身内にも温かい配慮を惜しまない人たちは多くおられる。国民一人一人は実に賢明である。
 ダウン症の子供さんを胸を張って連れ歩く家族と、ひっそりと自分を責めながら生活している家族の温かさと未来に向かう足取りの確かさが根本的に違うのと事情は同じであろう。人間は健康であればそれで十分ということではないであろう。健康も病気もともに引き受けていくほうが生きる道理に合っているのであろう。
 優生思想を採用したヒトラーは滅びた。この人間の愚かさを知っていながら、私たちは介護施設を優生思想的な発想を持ってイメージしている。何か成熟するために新しい知恵を磨かなければならないと心から思う。念のために言っておくが多くの人が抱いている、十分に医療を行わないのが老健施設であるというのは全く実態を言い当てていない。日本はまだそれほど経済的に貧しくない。私も老健施設で最善と思う医療をしている。医師免許を持っているのに、こうしたほうが患者にいいと思いながら、もろもろの事情を勘案して行わなかったら枕を高くして夜も眠れない。当り前であろう。ただ加齢という現代医学では根治できない病に対しても徹底的に戦うというドンキホーテのような蛮勇を持つほど尊大になれないだけである。
 10年先の高齢者医療の骨格は、現在のような医療と介護の概念を区別しないでジャブジャブと検査をしてジャブジャブと投薬する仕方ではなくて、私が現在取り組んでいる医療内容になると自負している。機会があれば私の実践している高齢者医療の詳細を報告したい。
続く
よき高齢社会のために No.10  高度認知症への対応

by rr4546 | 2009-04-04 15:48 | 医療関係 | Comments(0)