医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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国策捜査-国家は暴力装置である
 2000年当時、北方領土の日本への帰属を確認して、日露平和条約を締結することは国の方針(国策)であった。佐藤優氏は外務官僚として鈴木宗男氏は北海道選出の国会議員として、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗各日本国総理大臣の指示の元で、この国策の実現のために献身的に努力していた。日露平和条約の締結と北方領土の返還のための二人の働きは、彼の本から推察すると、純粋に国を思う気持ちによって支えられていた。国に尽くすためには無私の情熱が求められることについて深く教えられる。ただ2001年に田中真紀子外務大臣が登場して以降の対露交渉の混乱に端を発して、鈴木宗男氏は恫喝政治家として、佐藤優氏は外務省の怪僧ラスプーチンとして槍玉に挙げられ、鈴木氏は北方領土問題で利権を漁り、国益を毀損した売国奴、国賊とバッシングされ逮捕、そして佐藤優氏も背任と偽計業務妨害容疑で逮捕された。両氏とも1年半近く拘置所に拘留され、裁判を受けることとなった。ムネオハウス、疑惑の総合商社、外務省のラスプーチンと言う当時マスコミをにぎわした事件をおどろおどろしく印象つけるキャッチ・コピーはいまでも記憶に新しい。
 これらの経過を佐藤優氏は著作の中で詳細に語っている。かなり意図的に外務省と検察が、鈴木宗男氏と佐藤優氏を犯罪人に仕立て上げるために捜査が行われたらしい。有罪と判決が出た事件で、被告人の言い分を聞いて部外者が無罪ではないかと言うのもおかしな話であるが、佐藤優氏の背任と偽計業務妨害容疑は当時の上司であった東郷和夫元欧州局長がすべて事務次官の決裁を受けた通常の業務で、なにも法的な罪に当たらないことを裁判所で証言している。佐藤氏が有罪ということであれば、筋からその責任は当時の外務事務次官が負うべきであろう。その上担当検事は「この事件は罪を裁くのが目的ではない。有罪を前提とする国策捜査である」と語り、取り調べに当たった。実名を上げているので、もしこの告発が虚偽であれば検事は佐藤優氏を名誉毀損で裁かなければならない。
 日本のような法治国家で、戦前のような暗黒裁判が行われているなどにわかに信じがたいが、佐藤優氏は執行猶予4年、懲役2年6ヶ月の有罪判決が出された。上告中。ちなみに鈴木宗男氏は2年の懲役の実刑判決を受けて矢張り上告中。
 保釈中の佐藤優氏はこの裁判をこう分析した。小泉内閣はあらゆる規制を排して、新自由主義の国作りを目指した。佐藤氏は新自由主義は哲学も理念も何もない、ただ必要があって作られていた規制を次々と撤廃するだけの誰でもができる政治であると表現した。戦争状態を防ぐために作られていた法を廃したので戦争を招きよせた。格差を生み出した。このシンプルな国策を、小泉内閣は規制緩和という目新しい言葉や新自由主義と呼んで推し進めた。新自由主義経済は強いものをより強くする。社会的弱者や弱い地域はますます弱くなる。しかし小泉氏はポピュリズムを基盤とするので、勝ち組み負け組みを作る政治を行うとはいえない。この場合、腐敗した政治家がいる、彼らのやり方を変えなければという物語を作り、特定の政治家を断罪して、政策を転換するのが一番手っ取り早い。当時の内閣の意を汲んで司法当局は恫喝政治家やラスプーチンを生贄にして、犯罪を作り上げた。これが鈴木宗男騒動に対する佐藤優氏の見立てである。この主張に私はすべて同意するわけではないが、宗男逮捕は国を守るための、佐藤優氏のいうところの国策捜査であったことは充分ありうるように思う。当時はマスコミの報道するように、とんでもない政治家や外務官僚がいると私も信じていた。ホリエモン事件も、庶民の嫉妬を招くほどの勝ち組が誕生し、新自由主義経済政策に対する批判が出ることを恐れた政府が、勝ち組の象徴的な人物を断罪して国を守った国策捜査であったと佐藤優氏は診断している。
 クリスチャンで古くからの熱心な社会党支持者であった彼の母は、息子が身を粉にして働いていることを知っていたので、社会党を母体とする社民党の議員で弁の立つT女性議員が国会の場で「外務省のラスプーチンが鈴木氏とともに国に損害を与えた・・・・」と息子を悪人呼ばわりするのを見て涙を流されたと言う。信頼する党の議員が息子を公の場で誹謗する。優しい子供にと願って「優」と名付けた息子が悪人扱いされる。母の胸に去来したやり場のない無念な思いを察するとだれしも熱いものがこみ上げてくるのではないだろうか。同時に外交上大切な内部資料が外務省から野党に流されたことを知った佐藤氏は、同僚であった外務官僚がここまでやるかと背筋が寒くなったと言う。
 佐藤優氏ならずとも、自分のような愛国者を犯罪者として裁く国を暴力装置と感じるのは止むおう得ないかもしれない。トクヴィル理論で分析すると、民主主義国家の主権者は国民であるから、国民が国民に暴力を振るったということになる。何か可笑しい。わたし達の国は主権者を国民とする体裁をまだ整えていないのかもしれない。
 繰り返すが佐藤優氏に降りかかった事件を紹介するのが目的ではない。このような国策捜査によって職を奪われた佐藤氏が、糊口をしのぐために始めた言論活動を通して日本のクリスチャンの実態やわたし達の抱く国家観を垣間見ることができるので取り上げている。わたし達の国家観とトクヴィルのそれとを比較したいのである。

靖国神社と奉安殿
 超人的な諜報活動を行うので、対露外交を進めるために外務省でも一目を置かれ、数人の総理大臣からも厚い信頼を得ていた(佐藤優 インテリジェンス人間論)。しかし不思議な成り行きで、愛国者は現在は刑事被告人として右翼のイデオローグとして活躍することとなった。幸いなことに多くの支持を得ている。
 彼の展開する論陣の中で、靖国神社に対する興味深い言説を紹介しておく。「私のマルクス」と「国家論」を読んでいて、竹村健一氏の本を専門的に扱う出版社から佐藤氏が上梓した「国家と神とマルクス」が、前二冊で展開されている内容と同じことを「国家という名の妖怪」という白井聡氏との対談で語っていることを見出した。この対談に佐藤優氏の本音がよく出ているので、主にそれから引用する。
 佐藤氏は靖国神社の英霊に頭を下げることに深い喜びを覚えるという。戦争も知らない世代で、その上、太平洋戦争で最も甚大な人的かつ経済的に損害を蒙った沖縄は母の生まれ故郷である。太平洋戦争を指導した軍国主義者に厳しい見方をする人たちは彼の血縁者に多いであろう。しかし彼は靖国神社を参拝するのを喜びとする。
 「私はクリスチャンで、キリスト教の神様しか信じていないから、靖国神社に行っても、靖国に私の信じる神様がいるとは思わない。ところが、靖国神社に英霊がいるように私は感じるんです。英霊は、どの国にもいる。近代国民国家で命を投げ出した人に対する思い、人知を超える霊に対する思いをどの国民でももっています。だから私は靖国神社で平気で手を合わせる」。(佐藤優 国家と神とマルクス)
 佐藤優氏は1960年生まれ、現在は48歳か。戦後生まれで戦後育ち。60歳を超えた私でも余り日常的に使わないしかもリアリティーをほとんど感じない英霊が身近らしい。命を懸けて日本のために諜報業務に励んだと言う体験が国のために命を差し出した人たちに親近感を持たせるのであろう。それはよく理解できる。
 ただこう言い出すと私の理解を超える。「靖国神社に付属する『遊就館』を韓国人や中国人がけしからんと非難するのは、彼らの現在もっている物語からすれば、当然、そうなるのでしょう。しかし、我々がその物語に付き合う必要はない。私の経験では、遊就館について、イスラエル人やロシア人は、中国人、韓国人がもつような忌避反応をもたない。ロシア人やイスラエル人は、各国国家や各民族は固有の歴史や物語を持つ権利があり、それを巡る論争は不毛であると突き放した見方をしている」(同上)。
 私はイスラエルに数回でかけた。佐藤氏が言うような他国に被害を与えた戦争を美化する戦争美化博物館にお目にかかったことはない。ユダヤ人は本来宗教的な国民である。勿論パウロはこういう風貌と威厳を持っていたのではないかと髣髴とさせる世界的に有名なユダヤ人医学研究者は自分は無神論者であると平気で公言する。豚を美味しそうに食べる席に度々ご相伴した。いずれにせよ、宗教的情緒の発達した国民が、国土の大きさから言っても、人口からいっても小国中の小国であることを忘れて他国に被害を与える暴挙に出るとは考えられない。ユダヤ人が侵略的で世界を支配する野心を持っているかのごとくの発言を繰り返す人は、ユダヤ人は身の程知らずの阿呆で、ユダヤ人に侵略される人たちもい小国に何もできない赤子のごとくの阿呆であると、すべての人が阿呆であると信じ込んでいるのであろう。それほど世界の人は阿呆ではない。世界を侵略するより、世界と仲良くするしか、かれらの生き残る道はない。エネルギーも食料も海外に頼っているわたし達と事情は同じである。実際、イスラエル統一王朝であるダビデ王朝は北と南に分裂した後に、アッシリア帝国、バビロニア帝国、ペルシャ、シリアさらにはローマ帝国に侵略され支配され続けた。膨張主義的な帝国主義的な考えとは無縁な世界を生きてきた。彼らはホロコーストで殺された数百万人の名を刻んだ博物館と言うか歴史館を持っている。暗くて静かな洞窟のような中で犠牲者の名を一人ひとり呼び、人間の愚かさが招いた悲劇を振り返り、二度とこのような過ちを犯してはならない、させてはならないと厳粛な気持ちにさせる博物館を持っている。
 では今イスラエルがガザ地区のハマスやレバノンのヒズボラに攻撃を加える理由は何かと問われるであろう。創世記注解の最後に現在のイスラエルについて語ることになろう。わたし達が漠然と感じている世界支配をもくろむユダヤ人とは違ったユダヤ人の姿を紹介する。ともあれイスラエルに「遊就館」のような建物があるのは誤解だと思う。
 靖国神社に御祭神と祀られている人たちがどういう人であるかについては佐藤氏もよく理解しているであろう。靖国神社が何を目的として建立されたかも知っているはずである。神社と呼ばれる以上ある種の宗教的含意があることも弁えているであろう。靖国神社の歴史を美化する靖国史観はかなり偏狭な国粋主義者だけが共有する思想であることは靖国神社に関する最近の書籍(高橋哲也 靖国問題、三土修平 靖国問題の原点、 小島毅 靖国史観ー幕末維新という深淵)に共通する見解である。佐藤氏のようなクリスチャンがこれほど無批判に靖国神社に親しみを感ずるのはどこから来るのであろうか。国家を暴力装置と理解しながらなお、国家の名誉を守ることに情熱を燃やす。暴力装置を愛しているということか。
 国を批判しているのか、国を誇りたいのか彼の国に対する態度はかなり屈折している。主権者の自分がどういう国を作りたいのか展望が見えない。
 「自国民、自民族のために命を捧げたリトアニアとか、アゼルバイジャンの若者を見ると清々しいと感じるのです。こういうナショナリズムを巡る感情を私は否定できないのです。こういう仕事を経て、靖国神社に対してはシンパシーを抱くようになりました」(同上)。民主主義国家ではなくて、全体主義国家を望んでいるのか。
 さらに彼は語る。「国家が自らの意思で行っていることをやめろと外国が言うのは、現行国際法の『ゲームのルール』では内政干渉になる。一旦、内政干渉を受け入れてしまうと、ゲームが非常に複雑になる。国家主権というなかで処理したほうが、日本の個別利益にとっても、地域の安全にとってもマシなシナリオだと思います」(同上)。
 公式参拝する国の指導者を厳しく批判する隣国に対する靖国神社参拝の正当性があるということであろう。安倍晋三前総理大臣を囲んでいたブレインたちのロジックを支えているのか、彼らが展開するロジックの根拠を提供したのか、知る由もない。現在の総理大臣は靖国神社を参拝しないことを明言し、中国を公式訪問した。さぞ佐藤優氏は福田康夫総理の振る舞いを自国民の誇りを汚すものとして苛立っているであろう。堂々と靖国神社に参拝をしてから、隣国を訪問すべきである。
 親しくしなければならない隣国に対しては、彼らの主張に耳を傾けないで一国主義的な行動をとるべきであると見得を切る。一方「日本を含む世界規模での反米、嫌米感情の顕在化という事態は、論理的必然で、決して病的な現象ではないと思う。ただリアリストとして認識しなくてはいけないのは、強い者とは喧嘩をしないということです。これは非常に重要なんです。アングロ・サクソンは戦争に強い、戦争に強い連中を相手にする戦争はしない。それはリアリズムの基本だと思います。負け戦は絶対にしないというのが我々が太平洋戦争で学んだ教訓です」(同上)とアメリカに無原則に従うことを勧める。
 小泉純一郎元総理大臣が、アメリカでプレスリーの真似をしてブッシュの苦笑いを誘い、一方隣国の批判に耳を傾けないで、8月15日公式に靖国神社を参拝した姿が重なる。他者を支配するか服従する存在としか理解しない。互いに足らないものを補い合って一緒に未来に歩いていこうと言う発想は少ない。強いものには卑屈に、弱いものには傲慢に生きていく。それでは本当の友情は生まれないであろう。しかし彼の振る舞いの論理的根拠はあるのである。寂しいものであるが。何か海上自衛隊のイージス艦「あたご」が親子の乗る漁船を転覆させた後に、記者会見に望んだ制服組のトップがへらへらとして「緑の灯火を見て・・・」とあたかも漁船のほうに手落ちがあったかの如く語っている姿にも重なる。権力の側についていればすべて義は我にあると思えるようになるのであろう。  国家が暴力装置であることも、国民一人ひとりが国粋主義的な孤立主義に耽っているのも民主主義国家としては相応しくない。トクヴィルが繰り返し警告を発した民主主義国家の過ちの縮図を見るようである。しかし佐藤氏はこの主張をトクヴィルを知ってか知らずか「国家論」の中でも貫徹する。
 彼の「国家論」は日本国家を強化したいと考え、「十数名の編集者や研究者の前で二〇〇七年夏に行った八回の講義をもとに書上げた」本であるとのこと(佐藤優 国家論―日本社会をどう強化するー あとがき)。映像と音声を使って報道するので、報道するものの匿名性が許されない。いつも公開されているために取材源が権力者側だけに偏らないで多様な取材源を持たざるを得ない。これらの制約のために報道するものの視野が広げられ、テーマが未来志向的になる。私はマスメディアの中でNHKを最も信頼している。そのNHKの編集者たちが佐藤氏を囲んで勉強会をした。その成果が「日本放送出版協会」(NHK)から佐藤優著「国家論」として出版された。広く読まれる必要があると判断されたのであろう。何か狐に騙された心地がする。
 いやそれより彼の学んだ大学は、キリスト教を建学の精神としながら、戦前正門にいち早く奉安殿を建てて、若者に戦争協力を呼び掛けた過去を持つ。同時に戦後いち早く、戦争に協力したことを懺悔した学校として知られる。そして今は宗教間対話に努力している。
 佐藤優氏の靖国神社の英霊に対する態度は、この学校の歩みと齟齬を来たさないのであろうか。戦争協力も戦争協力に対する懺悔もすべて時の流れに従ってその時ばったりの対応であったのであろう。佐藤優氏は靖国神社を参拝する根拠に戦前に活躍した右翼のイデオローグ蓑田胸喜そして大川周明の言説を引用する。彼らの主張に従って太平洋戦争はアメリカの仕組んだ戦争で、日本にとっては聖戦であったと主張する。狂気に近い国粋主義者と評価されている人達の書いた本を読み解く情熱はどこから来るのであろうか。ソンビを生まれかわらせて何を企んでいるのであろうか。キリスト教の思想は国粋主義には親和性がなくて、民主主義に強い親和性を持つというトクヴィルの指摘にどう答えるのであろうか。キリスト教は唯我独尊的な考えを決して許さない。正当性を主張すれば、神が出てきてそれは罪であると語るばかりである。
 さらに北畠親房(1293-1354)の「神皇正統記」に基づいてわが国の国体を熱心に論じる。本当に現代の若者がこれらの本を参考にしながら生きていくことが大切だと考えているのであろう。クリスチャンに偏狭な国粋主義者が乗り移ったように活躍できるのはどこか変である。わたし達が民主主義的考えに親しむためには二重三重のbarrierがあることを認めざるを得ない。
 キリスト教に対する偏見が増幅されないのを心から願う。京都に住み彼の学んだ大学と無縁であることはありえない。限られた情報から推察するに、現在この大学は、キリスト教嫌いや無神論者を大量に生み出し続けているらしい。そのことに胸を痛める大学人はほとんどいないらしい。わたし達こそ正しいキリスト教徒であると信じて、教会の聖歌隊で歌をうたうのを楽しみにしたり、病院の倫理委員として活躍している。彼らこそわたし達に民主主義の思想を語る適任者であると思うが、残念なことである。彼らは民主主義に全く無関心である。佐藤優氏のようなクリスチャンでありながら、先祖帰りしたような国粋主義者を生み出す土壌がこの大学にあるのであろう。
 実際、佐藤優氏の発言にコメントした大学関係者がいることは寡聞にして知らない。共鳴しておられるのか、風変わりな卒業生を生んだと恥じておられるのか。卒業生に対して余りに薄情な態度である。
 トクヴィルが主張するようにキリスト教の思想は民主主義思想と深く関っている。自尊心を満足させるだけの国粋主義的な孤立主義とは無縁である。トクヴィルと佐藤優氏の思想の違いがどこから来るか真面目に考えなければならない。

寛容とは?
続く

by rr4546 | 2008-02-24 00:53 | 日本人論 | Comments(3)
東大生とトクヴィル
 「日常のなかで投げかけられた何気ない言葉が脳裏に残っている。一つは大学院生(東大大学院)を対象にしたある演習でのものである。著者(宇野重規東大准教授)にとって『アメリカのデモクラシー』を演習の教材に選ぶことは、ある意味で、自分の一番の持ち札を切ることである。当然のことながら、今まで自分がこの本に読み込んできたもの、さらに前著(デモクラシーを生きるートクヴィルにおける政治の再発見―)の刊行以後の新たな知見を、なるべく演習のなかに盛り込みたい、と思う。ところが、著者の未熟さゆえであろう、そのような思いは逆に演習の内容をわかりにくくしてしまったようだ。ある日、ある参加者がポツリとこう言ったのを、今でも鮮明に覚えている。『先生、今まで僕はいろいろな思想家の著書を読んできて、そのたびに、ああこの思想家はこういうことが言いたいだな、ということがだいたいわかった気がします。ところがトクヴィルの場合、読めば読むほど、結局、彼が何をいいたいのかわからなくなってしまいました』。ある意味、思想家のテキストを読み込むほど、議論のニュアンスがわかるようになり、その分、話しが複雑に見えてくることは往々にしてあることだ。でも、彼の発言からは、心底『わからなくなった』という気分がにじみ出ていた」(宇野重規 トクヴィル 平等と不平等の理論家 あとがき)。
 「なんで、今頃になって、あらためてトクヴィルがそんなに話題になるんでしょうね」(同上)と同僚が宇野氏に話しかけることは以前に紹介した。トクヴィル研究家が語るエピソードは一体何を語っているのであろうか、興味深い。最高学府の方々にもトクヴィルの思想はチンプンカンプンということだけは理解できる。わたし達のような素人はお手上げ?本当にトクヴィル理論は難解なのであろうか。
 アジアの隣国を批判する時にわたし達がよく言うことは、「価値観を異にしている」ということである。返す刀で先進欧米諸国とは価値観を共有していることを強調する。民主主義と自由経済体制の下で生きているということであろう。そういう意味では、私には、トクヴィルが民主政の健全な発展を願って明らかにした民主主義の欠陥やそれに対する対処法について充分理解しないまま、欧米諸国と価値観を共有すると称して、未来に向かっていくことが可能かどうかよく判らない。無理な生き方を重ねているような気もする。東大の秀才たちにも判らないということは、政治家でトクヴィルを読んでいる人は皆無か。トクヴィルについてクリントン前大統領もよく言及したという。国際舞台でトクヴィルの話題が出ることもあるであろう。場を白けさせては面目ないではないか。
 トクヴィルに親しむためには、彼が持っている人間は神と同じような無謬で全能ではないという人間観や、他者を発見して初めて見えてくる、「自由」と「勝手気まま」の違いや、「個人主義」と「利己主義」の違いへの深い洞察に対して、謙虚にならなければならないと思う。作法に従ってお茶を楽しむ仕方と、作法なしでお茶を飲む仕方があることを理解しなければならない。監督の下で野球をすることと、監督なしで野球をすることの違いを弁える知性が求められる。「自由の精神」には「宗教の精神」を必要とするというわたし達には謎めいた彼の言葉に対しても腑に落ちる努力が求められるであろう。無原則の中の自由と、原則の下での自由は全く違うのである。
 民主政は国民一人ひとりによって支えられている。国民一人ひとりが足らないものを真摯に自覚して、それを克服するためにいろいろな企みをしなければ民主政は成り立たない。そういう意味では、簡単に言えばトクヴィルは民主主義を支えるわたし達一人ひとりのあり方を論じただけだと思う。
 ホッブスは国家形成のための指導者の役割について主に論じ、トクヴィルは民主主義を支える国民一人ひとりの問題点と務めを明らかにした。主権者の国民が成熟しなければ国家は滅びる、当たり前であろう。
 トクヴィルを読むことの困難さは、わたし達が聖書を読むときに感じる困難さと通じているように思う。聖書に無関心でトクヴィルが理解できるとは到底思われない。トクヴィルとわたし達の思考形式は根本的に違っているかもしれないということは知っておくべきであろう。
 オバマの自伝を読むと、トクヴィルが予言した民主主義社会が生み出す矛盾が今でも厳として存続しており、その矛盾を解決するために一人ひとりが精神を豊かにするために大変な努力を払わなければならないことがよく判る。トクヴィルの指摘通りである。オバマは民主政を正しく発展させる知性を持っているとの国民の判断によって、大統領候補として健闘しているのであろう。黒人だから変革が期待できるという単純な動機で支持を集めているのではない。ケネディー上院議員やケリー前大統領候補もオバマを支持した。変化を求めて応援しているのであろうか。わが国のマスコミがイメージしている変化とは一体なんであろうか。他国の人をミーチャンハーチャンと見立てて面白おかしく論評していると大変なことになると思う。オバマはトクヴィルから多くを学んでいるか、トクヴィルと同じ魂を持っていることが自伝から断じれる。トクヴィルから学ぶことは今でも多い。
 トクヴィル理論を必要としないというわたし達は、民主主義社会の欠陥に対処する別な切り口を必要とするであろう。その処方箋なしでは、益々複雑になっている国際社会で品格をもって生きていくことはできない。東大生がトクヴィルを難解と感じる理由の一つとして、自分には欠けたものがあるという簡単な自覚の欠如と、民主主義社会の欠陥に対する洞察不足が深く関係している。東大生は皆完全に近いのであろう。何事も上手くやって行けるのであろう。あらゆる分野の領域で民主主義を成り立たせている法にたいする違反が蔓延っているのは、民主主義社会に生きる国民の務めに対する教育がほとんどなされていないことが関係しているであろう。

小山勉著「トクヴィル」からの抜粋
 「輝かしい夢のような理想的な民主主義を夢見て、容易に実現できると信じている人々に対して、ぼくは次のことを教えようとしたのです。民主政体は、知識、徳、信仰などのいくつかの条件が整ってはじめて存立しうるものであるけれど、われわれフランス人の場合は、そうした条件が全くない。よい政治的成果を得るには、先ずその条件を確保する努力が必要です。民主主義を大混乱、アナーキー、略奪、殺人の同義語と捉えている人々に、ぼくは次のことを教えようとしたのです。民主主義は、財産を尊重し、権利を認め、自由を大事にし、信仰を重んじることによって社会を統治することに成功していること、民主政体は、他の政体ほど人間精神のいくつかのすぐれた能力を発揮させないにしても、好ましいすぐれた面をもっていること、おそらく結局は、神の意思は人類全体に平凡な幸福を広めることであって、至福を一部の人々に独占させたり、少数者を完全性にちかづけたりすることにはない。ぼくは前者の熱狂を和らげ、彼らに勇気をうしなわせることなく、とるべき唯一の道を指し示そうとしました。ぼくは後者の恐怖を和らげ、彼らの意志を不可避の未来という観念に向けようとしました。」
 「全能はそれ自体悪であり、危険なものと思われる。その行使は、行使者がだれであろうと、人力を超える。地上にはなんら抑制もなく行動させ、なんの障害もなく支配させてよい、と思うほど、それ自体が尊敬に値し、あるいは神聖な権利を持った権威など存在しない。万能の権利が何らかの勢力に与えられた場合、その勢力が人民と呼ばれようと、王と呼ばれようと、また、民主制であれ貴族性であれ、さらにそれが王政で行使されようと、共和政で行使されようと、そこに専制の萌芽があると宣言し、他の法制のもとに生きる場所を求める。トクヴィルの究極な課題は、権力の全能を抑制するために、自由―平等軸の政治空間にバランス装置をいかにして多元的に創出するかである。理性の全能も理性の傲慢も専制を可能にするので許さなかった。」
 「ピューリタニズムは宗教的教義であるばかりでなく、多くの点で完全な民主主義的・共和主義的理論と一致している。ピューリタニズムは内面における信仰の営みをとおして、政治的世界すなわち外面的秩序を組み立てて行く実効的形成力を持っていることを強調する。」
 わたし達にとっても有益な指摘は多いのではないだろうか。なぜ判らないと感じるかについても、真剣に問うてみる必要もあるであろう。

Who is Masaru Sato?
 佐藤優(1960-)という人物を知っている人はかなりいるであろう。外務省の怪僧ラスプーチンと呼ばれてしばらくマスコミの餌食になっていた。昨年の暮れには、いずれもmajorな出版社から5冊の新刊本を上梓した。Amazonで検索すると短期間にかなりの本を世に送り出していることが判る。面目ないとういうか、暇だというか彼の本をかなり持っていると告白しなければならない。彼の本は読みやすくどんな大部のものでも2,3日で読了できる。トクヴィルの本とは対照的である。国策捜査、インテリジェンスと余り馴染みのない言葉も知った。
クリスチャンであることを公言して、自分は右翼で保守的な国家主義者であると位置付けている。保守的な人たちから高い評価を得ているらしい。竹村健一氏との対談も出版されている(未読)。インテリジェンス業務というのは国のために身を挺して情報収集をする仕事で、昔のスパイであり、国への忠節心がなければ、とても勤まらない激務であろう。彼の自己分析は正しいと思う。
 彼はノンキャリアの専門職員でありながら、ソ連の大使館に勤務するかたわら各国にまたがる要人との人脈を作り上げて、日本にとって有益な情報を収集して、その分析に当たり高い評価を得た。驚くことに外交官を立派に務めながら、モスクワ大学の宗教史宗教哲学科で弁証法神学を、東大ではユーラシア地域変動論を講義した。職を得てから習得したロシア語も自在に操るらしい。異能の持ち主である。彼の本には巻末に言及した書名のリストが挙げてある。読んでいる本の多さだけではなく、読んでいる本のカバーする分野の広さに多くの人は驚くであろう。
 なぜトクヴィルのところに佐藤優が出てくるかについて怪訝に思う人も多いであろう。佐藤優という人物を紹介するのが目的ではない。佐藤は「私のマルクス」や「国家論」の中で繰り返し「国家は暴力装置である」であると語り、同時に自分は「国家主義者であるがアナーキズムの影がある」と告白している。彼の国家観をトクヴィルの民主政に対する態度と比較すると、わたし達の思考様式の特徴に対する自覚が深まり、トクヴィルがなぜ難解と感じるかがよく分かると考えるから取り上げようとしているのである。
 彼がクリスチャンになった背景を知っておくことはこれから述べることと関わりがある。佐藤優少年は浪人時代に自分が本当に取り組まなくてはならないのは沖縄現代史と神の問題であると思い定め、高校時代に親しんだマルクス主義や無神論研究が続けられる神学部を探した。「そんな乱暴なテーマで学生をとるところは同志社の神学部しかないね。あそこはむちゃくちゃなところだから」(佐藤優 私のマルクス)との先輩の助言に従って、同志社大学神学部で学ぶことになった。
 無神論を研究したいという青年は、「私は神学部に入った年のクリスマスに洗礼を受けて、それから自らの信仰が揺らいだことはない」(佐藤優 同上)と告白し、その後の行動の規範はイエス・キリストを信じる信仰であると「私のマルクス」の最後で述べている。まことに興味深い。日本型キリスト教徒や日本人の国家観を学ぶために格好な人物である。手厳しくなるが。

国策捜査
続く

by rr4546 | 2008-02-14 14:30 | 日本人論 | Comments(1)
自由の精神
 トクヴィルはフランスの経験から、絶対王政や貴族制が自由と平等を基本とする民主政に移行するのは歴史的必然と考えた。民主政が、貴族政のような身分社会に逆戻りすることはありえない。わたし達の国では、今でも一部の人は江戸時代に戻るのが一番いいと夢想しているが、そういう懐古趣味とは無縁だった。よりよいものを作り出そうという人間の知性を信頼していた。だだ、民主政がこの世に楽園を作り出すという楽観的立場を取っていたわけではない。むしろ民主政には多くの欠陥があることを示し、革命なしで樹立されたアメリカのデモクラシー社会の制度を参考にしながら、欠陥を克服する道を思索した。脆弱な民主政の長所を生かし、欠点を最小化するために働いた思想家といえるであろう。
 話は飛ぶが、ソビエト連邦の崩壊は社会主義経済の行き詰まりが招いたというのが常識。しかしトクヴィル理論で考えると、共産主義連邦を作り上げるために、自立していた地域の国々の権力を根こそぎ奪って中央集権化して、肥大化した一つの集権的行政権力だけが機能する連邦制を作ったことが破綻の原因と考えることもできるように思う。中央集権的行政、専制性は、面倒見はよいが、地域に住む人たちの政治的無関心と依存心ばかりを生む。その上、中央集権国家は権力の中にある無謬性や全能性の恐ろしさをチェックする機構を持たない。トクヴィルによると専制的な政権は、最大多数の利益という美しい外観を装った、もっとも無制限かつ無責任な政治を生み出すという。ソビエト連邦は独裁者の誕生に好都合な体制であったのではないだろうか。実際一千万以上の人を粛清したといわれる悪名高いスターリンを生んだ。ソビエト連邦の崩壊は民主政に専制的権力が生まれると国が滅びるというトクヴィルの予言が共産主義社会にも当てはまることを示していると思う。トクヴィル理論を参考にしながら、中央集権的政府のもたらす弊害を軽減する努力を払い続けていれば、今でも共産主義社会は資本主義社会に対抗して残っていたように思う。トクヴィル理論の汎用性の高さを示している。
近代民主主義憲法の一つの典型とされ、自由権に価値を置きながら、社会権保障も謳っているワイマール憲法(1919)の下でヒットラーという独裁者が生まれた。事情は同じであろう。
プーチン政権を欧米諸国が警戒しているのは、権力を集権的に握る彼の手法が国家を破綻させるのではとの危惧からきていると思う。批判ではなくて心からの忠告だと思う。ロシアに自動車工場を作り、ロシアと共同で投資ファンドを設立する人たちはプーチン政権が持つ危険性を認識していないのかもしれない。プーチン政権の内情を知る資料は何も持っていないが。恫喝されてかなり進んでいたイランとの石油共同開発を取りやめた失敗からもっと学ぶべきであろう。
 トクヴィルは近代民主政が専制的な権力によって内部崩壊するのを防ぐためには一人一人が「自由の精神」を学び続けることの重要性を繰り返し強調した。「地方自治」、「陪審制」そして「アソシアシオン:政治権力から無縁なところで政治を語る共同体」(小山勉先生はこの共同体をアソシアシオンというフランス語をカタカナにして本を書かれた。英語で言えばassociationということであろう。これに該当する日本語はないとの判断からあえてアソシアシオンを使い続けられたと想像する。小山先生は民主主義を維持するために最も大切な権力から離れたところで政治を語る習慣をわたし達が持っていないことを深く憂え、一日も早くわたし達がアソシアシオンにピッタリとする日本語で表現できる共同体ができあがることを願っておられたと思う。民主主義を健全に育てるための心の習慣を訓練する場所をわたし達が持たないとの先生の憂いを真剣に受けとめるべきであろう)の「三つの自由体験学校」で自由の精神を学習することを勧めた。

正しく理解された自己利益
 今回は、貴族的人格が備えておくべき「徳」に関して彼が主張する「正しく理解された自己利益」の理論を紹介しておく。
 「フランス絶対王政を批判して『法の精神』の中で統治権力を立法・司法・行政の三つに分立する三権分立を説いて、アメリカ合衆国憲法やフランス革命に影響を与えた近代民主主義思想の礎を築いたモンテスキュー(1689-1755)のような知の巨人ですら、共和政を維持するための『徳』の基本は、公共の善のための自己犠牲をはらうことであると主張した。ルソーを始め18世紀のフランスの啓蒙思想家たちも同様に、古典的共和主義の伝統である公民道徳は奢侈と自己利益から生まれない。富は堕落と見做して、自己利益を制限することを求めた。
一方、トクヴィルはレドレルの『道徳原理の起源はわれわれの欲求・利益・本性全体にある』との主張に立って、公共の善のために、自己利益を犠牲にする徳は長続きしない。自己利益を尊重して、自己利益と公共益との一致点を捜し求めるところに『公の好意』が成り立つと主張した。自己利益は公共の善に反するものではない。民主主義下では、利益抜きの善行を求めるべきではない。近代民主政は『善行が偉大なるガゆえに、同胞のために自己を犠牲にする』という徳の上に立っているのではない。利益抜きの犠牲の観念は、近代民主主義の倫理と相容れない。トクヴィルは、近代民主政の理念を作り上げた思想家たちの思い描く徳とは全く異なる徳に対する考えを持っていた。彼は私的自己が啓発されて、私益と公益との調和を目指す公共精神に富む市民が育つことを最も強く願っていた。自己利益抜きでは市民道徳の活性化は不可能である。私益と公益の調和を可能にするのが『正しく理解された自己利益の理論』であり、近代民主政の基本的理念である」(小山勉 トクヴィル)
 上に述べた現代に有用な徳、倫理についての考察はトクヴィルと小山先生の合作といっていい。武士道だ、慈悲だ、仁・義・礼・智、品格だ、無我だ、無欲だと「人の道」を説く、文化人やお坊さんそして世捨て人の主張は17世紀末から18世紀に活躍した知の巨人である啓蒙思想家達や、矢張り同時期に活躍したイギリス経験論者の洞察にみちた倫理のついての考え方のレベルにも達していないように感じる。その上、わたし達が目指している徳は、トクヴィルの私益の上に公共益を考えるべきであるとの主張と全く反していると言えるであろう。民主主義のもとでの「徳」についてわたし達はもっと真剣に考えなければ、欲の深い顔をして「私は武士道に従って生きている、我を克服している、利己主義を克復している、仙人のように生きている」と自己利益から開放されて生きているという妄想にしがみ付いて、他人の悪口ばかりに精を出す心の習慣を磨き続けるであろう。品のない出来事が頻発する社会を生み出してはならない。
 私益より公益を優先させる「徳」は古代の民主政では有用であるが、近代の民主政では求められない。「道徳原理の起源はわれわれの欲求・利益・本性全体の中にある」というトクヴィルの主張に謙虚に耳を傾け、わたし達の心の習慣を新たに作り上げたいものである。成熟した、世界に通用する人間に生まれ変わらなければならない。
 私益を無視しないで、私益の上に公共益を求めるという主張は、ヤコブの生き方を参考にしているように思う。ヤコブは父を騙して長子権を手に入れ、舅の財産を横取りして故郷に逃げ帰る。私益にだれよりも執着していた。ただヤコブが私益だけで生きていたら、イスラエルの祖としてその名を創世記に留められることはなかったであろう。ヤコブは私益を大切にしながらも、神への従順さを誰よりも大切にして生きた。ヤコブの時代は公共益とは神との正しい関係を持つことであった。わたし達も俗と聖の両方に尽くす生き方が求められているのを自覚しなければならない。「私」を基本として、私のためだけに生きていくことより、「公共」に尽くすという精神の中から道徳的な生き方を導き出さなければならない。

自己利益
 わたし達は私益を基本として公共益を考えるべきであるとの主張にさほど啓発されないかもしれない。もともと「私」より「公」を大切にして、意見を言わないで風波を立てないで共同生活を送るのを美徳と考えている。個に拘る生き方を嫌う。トクヴィルに言われる前に、トクヴィルの勧める徳を基本として生きていると思うのではないだろうか。自己主張を悪徳と考え、和を優先する。
 100人いれば100通りの考え方があり、自然状態でいれば戦争が起こる。それを防ぐためにリヴァイヤサンを必要とするというホッブスの国家形成理論にもさほど興味を持たない。民主主義社会を維持するためには、物言わぬ隷従を好む人々ではなく、自立した自由の精神に富んだ貴族的性格を持つ人々を必要とするとのトクヴィルの主張にも全く無関心。法の支配や自立した個人によって始めて共同体が成り立つという理念は、和によって共同体が成り立つというわたし達の考え方と全く様相を異にしていることを自覚しておかなければならない。共同体を成り立たせる基本原理が欧米社会のそれと異なるのである。
 個を確立することの大切さをわたし達は今一度見つめなおさなければならないのではないだろうか。意見を持たない人間などこの世に存在しない。個には拘らないで、皆に合わせていきますという耳障りのいい自己認識は、かなり屈折していると思う。個の確立のためにも、人間は被造物に過ぎないという自覚と、人間は中枢的統御の下で生きているというこの世の道理に謙虚になる必要があるであろう。個の確立のために、一神教的な考え方は参考になる。

バラク・オバマ著「マイ・ドリーム」
 民主党の大統領候補をヒラリー・クリントンと争っているオバマの自伝を読み始めた。ケニヤから来た留学生と、カンザス生まれの白人女性の間に生まれたオバマの自伝はわたし達には想像のできない波乱万丈の物語である。黒人の父は彼の誕生直後、経済的事情でアフリカに帰ってしまう。母はインドネシア人と再婚して、オバマはスカルノ政権が失脚した直後(1967)のインドネシアに移り住む。10歳でハワイの学校に入学するまでインドネシアの現地の学校で学ぶ。黒人差別が厳然と残っている時代に、黒人の息子として生きていくことには多くの葛藤や悩みがあった。母方の祖父は黒人に理解があるのに白人至上主義者。社会を怨んでグレル条件がすべて揃っていた。しかし彼の人を見る目の暖かさ、寛容で未来志向の精神には驚かされる。時々登場する日系アメリカ人も、日本人らしい心遣いをする人物として見事に描かれている。アメリカを憎む論陣を張っている知識人は、こういう人物が大統領候補になる国に対してどのようなコメントをするのであろうか。通読したわけではないので巽孝之氏の書いた朝日新聞2008年2月3日の書評を抜粋しておく。
 「・・・・オバマの『マイ・ドリーム』と『合衆国再生』を併せ読むと浮かび上がってくるのは、アメリカ原住民やアフリカ黒人、白人の血とともにキリスト教もイスラームも、ときに仏教すらやすやすと並存し習合しうる一つの巨大で多文化的な家族史であり、おそらくはそれゆえに、異なる価値観に対しても驚くほど寛容な男の肖像である。・・・・」。こういう品格ある人物を生み出す社会があることを知ればトクヴィルが民主政に対して抱いた危惧も払拭されると思う。

続く。

by rr4546 | 2008-02-10 15:27 | 日本人論 | Comments(0)