医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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カテゴリ:宗教( 15 )

残酷なストーカー事件について論じたことがある。若者が理不尽に命を落とすのはいたたまれない。口でがましいが再掲しておきたい。「一神教的思考様式を学ぶー創世記」P.38-48
創世記 No.5 天地創造 No.5 カインの末裔―神への捧げもの
2006年 11月 11日
神への捧げもの
 楽園から追われ地上に住むことになったアダムとエバは結婚してカインとアベルの二人の兄弟をもうけます。聖書的立場からするとわたし達はアングロサクソンだ、ラテンだ、アフリカだ、東洋だホッテントットだと自分の人種的identityを主張しあっていますが、私たちはアダムとエバから生まれた兄弟です。カインは農耕、そしてアベルは羊飼いとして生計を立てていました。牧畜から農業へと生活スタイルが変わっていく時代を背景とした神話です。彼らは大切な収穫物を神に捧げます。
 「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持ってきた。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその捧げ物に目を留められたが、カインとその捧げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」(創世記4章3-5節)。
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 不思議なことに、主はカインの献げ物に目を留めませんが、アベルの捧げ物を良しとされる。楽園から追い出したので、不肖の息子たちとは縁が切れたはずですが、主は地上のアダムの末裔たちにあれやこれやと干渉するのです。楽園の外の事など私たちに任せてくれたらいいのに・・・。
 神がどういう意図を持っていたか伺い知ることはできませんが、カインの捧げ物に目を留めなかった。カインは悲しかったのでしょう、野原で弟アベルを襲って殺してしまう。不思議な顛末が記載されています。
「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」(創世記4章8節)。 カインもアベルも捧げ物を差し出したのですから、二人とも神に喜ばれ祝福されるというのが合理的な結論です。しかし神は肥えた子羊しか喜ばなかった。カインは喜ばれなかった理由が思い当たらない。当然ですね。
 この物語から、神の選びは人間の側の手柄にはよらない一方的なものであることを学ばなければならないでしょう。心を込めて捧げれば喜ばれるというのがこの世の理ですが、神は心を込めた贈り物でも拒絶されることがある。この世には私たちが納得できる条理に従ったことだけではなくてどうしても納得できない不条理なことがあるということを暗示しています。誠実に真剣に生きていても事がうまく運ぶとは限らない。
 アダムとエバの息子であるカインは弟殺しを仕出かす。ただカインの言い分を聞けばもっともと頷くしかない。いや彼に同情してしまうかもしれない。
 神は弟を殺したカインを許しません。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」(創世記4章10-12節)。農業に従事するものにとっては死ねとの宣告です。
カインの末裔
 私たちは「カインの末裔」と呼ばれています。呪われてこの地上をさすらい続けなければならない。今回はカインが神に献げ物をしながら神に従うのではなくて弟殺しをしてしまう理由について考えておきたいと思います。
 この世の中にはどうしても納得できないことがある。どうしてだという問いを長い間、人は繰り返してきました。仏教は過去の善・悪の行いに相応する楽・苦の結果があるという因果応報的な考え方を教えました。
ただ正しいものが滅びて、悪いものが栄えることは現実によく起こります。そこで因果応報は前世・現世・来世の三世にまで広げられ、過去の善・悪の行いが現在や来世の幸・不幸を招いているとして、理不尽な逆境の由来を明らかにしました。何もしていないのに不幸に襲われた人には前世の悪因によって今の苦しみがある。悪が栄えるのを見て嘆く人には、来世で彼らは悪果で苦しむと教えるのです。
 創世記はこの世の出来事が因果応報的な仕組みで起こっていないという全く異なった考え方を示します。神のご計画は人間の想いを超えたもので、知っている範囲が狭い人間には決して神の経綸には思いが及ばない。献げ物が神に嘉せられなかった理由はカインが判らないだけである。
 神の選びの根拠は人の思いを超えているということを先ず頭に入れなければなりません。世界が因果応報的な合理的考えでは理解できない、非合理から成り立っていることを明らかにしました。
 謙虚になれなかったカインは献げ物をすれば神が祝福してくれると勝手に思い込んでいました。神を支配しようとした。思い通りにこの世が動くことはまずないですね。良いことをしてあげたのに逆恨みされることはいくらでも起こります。逆もまた真なり。よそ様が期待通りに答えてくれればこんな楽なことはないのですが。
・…・…・・…・…・・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 精一杯心を込めた献げ物も突き返されることがある。そして捧げ物が突き返されただけで、逆上して弟殺しを仕出かす。
 どうしたらカインは弟殺しに走らずにこの世に立つことができたのでしょうか。献げ物を誇るのではなくて、献げ物が神にふさわしいものかどうかの畏れを持って捧げていればカインの悲劇は起こらなかったのではないでしょうか。神であればこれで充分だと誇っていいのです。神ではない僕は、献げ物をする時でも自己肯定的な立派な献げ物ですとの思いと同時に、自己否定的なこれでは充分ではないかもしれませんとの思いが求められているのです。
 よく考えてみればこれは当たり前で、献げ物は立派であると同時に、充分ではない側面があります。贈り物をしてけちをつけられたら逆上してしまいますが、文句のつけようがない捧げ物などありません。日々の営みの中でも、徹底的に考えたと思っても、まだまだ十分に考えたといえない側面があるのと同じです。この簡単な仕組みを自覚することが神の知恵を手に入れたアダムの末裔達には難しいのでしょう。
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 「ストーカーが若い女性を追い掛け回した挙句に残酷な方法で命を奪う事件が後を絶ちません。未来のある若者が死んでいくのは悲しいことですね。精一杯尽くせば、思いを寄せる女性も喜んでくれると勝手に思い込んだ挙句の悲劇のような気がします。思い上がったカインの弟殺し事件は私たちの身近でも起こっているのです。心を込めて贈り物をしたから、相手は応えてくれる。そういう単細胞的な発想から逃れるためにも聖書を学ばなければならない。」
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 こんな考えを持つことができるではありませんか。「夕食の準備のために買い物に出掛けて、自分の食べたいものだけを探している時と、相手の好物を探して手に入れる時とどちらを幸せに感じるのでしょうか。自分の好きなものだけを買う時しか喜びを見出せない人はいないのです。不思議なことに自分のことより、相手が喜んでくれる物を見つけた時のほうがうれしく感じる。私たちは相手に尽くすほうを喜びに感ずるという遺伝子を持っているのです。」

by rr4546 | 2013-10-19 00:21 | 宗教 | Comments(0)
TO兄
 小生の「一神教的思考様式を学ぶー創世記」に、全面的に朱筆を入れてくれて有難う。句読点の打ち方、助詞の使い方、悪文の整理の仕方そして引用文献の扱い方、そしてまだ君は本を書く筆力がないとの手厳しい批評。文才もないのに、言い残しておきたいことだけがあるので、止むおう得ず書いているという家内作業ですので、職業的な文筆家から見たら我慢ならないことばかりだったことでしょう。ミリオンセラー作家の指摘ですので、すべて納得しました。本などを書くべきではないとのご託宣ですが、「老人医療のイロハ」そして「医療と介護」の二冊を書く準備をしています。その際は、君の今回の指摘を参考にしたいと思っています。
 ただ内容についての批判に対しては一言。趣旨が混乱していて君は天地創造と進化論のどちらを信じているのか、内村鑑三を批判して若者に内村の本を勧めるとは何事かなどなど。そして話があちらこちらと飛躍すぎると、流れが追えないで頭にきている感じがよく伝わりました。
 文章はともあれ、展開するロジックに対する君の批判に一々こたえるには、短い手紙では不十分ですが、基本的な僕の立場だけを書いておきたいと思います。
 被造物である人間が、人間として立つためには、創造主という自分とはまったく異質な他者に出会う必要があります。奥田昌道(元最高裁判事)先生の小さい集会に出ていたときは、先生の真摯な信仰生活に少しでも近付こうと、先生の言葉のすべてをメモして、自分なりに理解するよう努めました。説教をビデオで繰り返し見たものです。しかし、先生は創造主と違った被造物との自覚を持つことに、余り関心を持たれなかった。そのために先生は、キリストとの本当の出合いはなかったように思います。創造主とは全く違った被造物であるとの自覚を持つには、余りにも人格的に優れ、その上に社会的にも功なり名を遂げられたことも、神ならぬ欠点だらけの被造物であるとの自覚を持つ、妨げになっていたのかもしれません。
 そしてカトリック司祭の雨宮教授のお話を聞いて、多くの限界と欠点のある被造物であるとの思いに心から腑に落ちたとき、僕にとっては神がなければ僕ではありえないとの精神世界が出来上がりました。そういう意味で、天地創造によって命を与えられる以外の自分はない。天地創造を深く信じています。
 多分この説明も、君にとってはチンプンカンプンだと思います。この体験を、後書きで「闘って勝った神に帰依する」(創世記32章25-29節)というヤコブの信仰世界が、十字架で殺されたキリストを信じる精神世界と同じ、あるいは砂を噛むような思いでしか読めなかった聖書が、歳を重ねるにつれて興味深い書物になったと表現しておきました。神にひれ伏して、信仰世界を持つというのが一般的な信仰者の姿でしょう。僕の精神世界はそれとは全く様相を異にしています。現在の聖書の読み方は、学生時代と根本的に違っているのです。
 旧約にせよ新約にせよ読んで自然に心に沁みこんできますか。心に引っかかる描写ばかりにたじろいで、立ち止まってしまうのではありませんか。逆に読みづらかったところが、ある日突然、大切なメッセージを語っていることに気が付いたことがありますか。今の僕はどの個所を読んでも、発見ばかりで、このような叡智に溢れた本が、廃れることなく長く読み継がれてきたことに感動しています。
 新しい出会いを経験した後と前とでは見える世界が全く違います。今回の僕の本は、そういう体験を持ったことがない人には極めて難解だと思います。ある日、聖書の読み方が180度変わったという体験なしで、今回の僕の本を読めばロジックは飛躍だらけだと感じるでしょう。聖書が素直に読めないように。本の中でよく引用したホッブスの「リヴァイアサン」とトクヴィルの「アメリカのデモクラシー」を同封します。これらの本が現代を成り立たせている原理・原則を描いていると納得できますか。多分、チンプンカンプンで頭にくると思います。
 僕たちには窺い知ることができない精神世界があるということに謙虚でありたいですね。そしてアブラハム、ヤコブ、ホッブスそしてトクヴィルと同じ魂を持つよう励みたいですね。彼らの知恵を身に付けなければ、気が付いたら、犬猫の世界で右往左往しているだけだったということになると思います。世界の人たちは知性と理性を洗練し続け、高みを目指しています。乗り遅れないようにしたいですね。
 今回の僕の本は、歳を重ねたら世界がこう見えるようになったことを書いたのです。信仰入門を書いたのではありません。言い換えれば、若い時の思考過程とは全く違った思考過程で、医療に取り組めるようになった。日本人と欧米人の思考過程の違いから、全く様相を異にする社会が出来上がることがよく判ったということを書いたのです。そのために本の題名を、信仰入門ではなくて、一神教の思考様式を学ぶと銘打ったのです。
 考え方の基盤が僕と違っていれば、僕の本は難解で飛躍ばかりのお喋りに響くことでしょう。しかし、普遍的で永遠の価値を持つ世界を垣間見るためには、アブラハム、ホッブスそしてトクヴィルの精神世界に親しむほかないと思います。
 僕が深い精神世界を持っていると自慢しているように響きますか。君も知っているように、僕は敬虔さや、謙虚さや、信仰深さからかけ離れた生まれたままな野卑な人間です。まだまだ、魂を磨かなければならないことを、深く自覚しています。こんな品のない、欲望に弱い宗教者はいないですからね。

by rr4546 | 2010-12-26 10:17 | 宗教 | Comments(0)
 しばらく、高齢者医療の本を書くことに集中しなければならない。誰も読んで下さらないが、ブログを放っておくのも寂しい。手元にあるものを随時載せるか。
T様へ
 「一神教的思考様式を学ぶ―創世記―」を読んで下さりうれしく思います。そしてわざわざ感想をお送りいただき感謝。聖書を今でも読んでいますが、この歳になっても、読むたびに学ぶことがあり、聖書に出会って本当によかったと思います。いや私の仕事は医療ですが、信仰を持つ医療と信仰を持たない医療があるとすれば、信仰を持たない医療が一体どういうものか想像できません。聖書は希望と愛を語っているだけだと思いますが、信仰を持たないでほんとうに希望や愛を語ることはできません。多くの日本人は信仰なしで希望や愛が持てると信じて疑いませんが。あなたも日々聖書を読まれているとのこと、ますます信仰世界を豊かにされますよう。
 ただ私の本にかなり戸惑われた由。日本人のクリスチャンは新約聖書を手引きにしながら信仰生活に励まれますが、新約聖書はかなり知的な上に、理性に反する十字架で死んだイエスを救い主だと説いています。今の私は新約聖書をおもにひも解いて毎日を送っていますが、人間に殺され、死んで復活するイエスー何と深い意味が隠されているか。私たちには縁遠い世界と思っていますが、私たちもその世界を生きていると思いますーを救い主だと信じるためにも、旧約聖書の信仰世界を丸ごと理解する必要があるとしみじみ思います。旧約聖書は出来上がった年代が古いだけではなく、現代でも人を導く力のある信仰に親しむための根幹をなす知恵が書いてあるのではないでしょうか。
 旧約聖書にイエスの誕生の予言が書いてあるとよく言われますね。とくにイザヤ書の「苦難の僕」はイエスの預言であるといわれています。ただ私にはアブラハムの信仰、ヤコブの信仰そしてヨセフの信仰すべてがイエスが救い主であることを証しているように思えます。そういう意味で旧約聖書全部がイエスの到来を予言している。アブラハムの信仰に親しまないで、イエスを救い主と信じられない。人それぞれの旧約聖書の説く信仰世界の理解が求められているのではないでしょうか。
 旧約聖書を理解しないで信仰世界に親しむことができるのか、かなり難しいと感じます。アブラハム、ヤコブそしてヨセフの信仰世界に馴染まないでキリスト教に親しむ、以前の私であればそういう風に理解しても何も怪訝に感じませんでしたが、新約聖書を読むたびに人間が旧約の信仰世界のうえに、新約聖書の説く信仰世界に導かれていったことがよくわかります。そういう意味で今回の創世記の注解は自分のためにも書かなければならなかったのです。
 私の創世記の理解に共鳴して下さる方はほとんどいませんので、旧約聖書の説く信仰世界に腑に落ちて、初めて新約聖書の信仰世界の中で生きていけるという私の思いは、私だけの思い込みかもしれません。
 いずれにせよ私たちも初老を通り越して、高齢者の仲間入り近し。私にも実感がありませんが、あと残された一日一日をお互いに人生の指針をよりどころに豊かに歩んでいきたいですね。指針なしでは生きていけません。指針が手元にあっても、右往左往で悩みは尽きませんが。
 4月の初めに内科学会に東京に出かけました。メトロという地下鉄のどの路線の車両にも「孤高のメス」の映画の宣伝パンフレットがぶら下がっていました。メトロが大鐘君の映画のサポートをしているらしい。メトロ主催で5月に試写会をするとうたっていました。そして6月15日全国ロードショウとありました。是非みんなで見に行きましょう。
                 平成22年4月26日

by rr4546 | 2010-11-01 23:35 | 宗教 | Comments(0)
 先日友人から君の本がネットのTSUTAYA on lineと楽天ブックスで購入できるようになっているがどういうことだと問い合わせを受けた。自費出版の本でネット販売など考えたこともない。ネット上の本屋がどういう経緯で「一神教的思考様式を学ぶー創世記―」を販売目録に入れてくれたのか思い当たることはない。ただTSUTAYA on lineのレビュー欄に「まだレビューはありません。一番のりです」とうたってある。本は献本と友人知人への押し売りだけなので、わざわざ感想を書いて下さる方はいようはずもない。文体も構成も全面的に練り直さなければと手厳しい感想をくれた友人もいる。
 ただ思い掛けない感想を下さった方もおられる。お二人とも伝統のある大学で理事長としてご活躍されている、私からみれば仰ぎみるような方たちである。お世辞で個人的に下さったお手紙を承諾もなしで公開することのエチケット違反は承知であるが、敢えて身元が判らない形でお二人のご感想をブログに残すこととした。お二人のお許しが頂けますように。

手紙1
 ご著書「一神教的思考様式を学ぶ」をご恵送くださいまして、誠に有難うございました。
 早速、読ませていただいておりますが、聖書から現代の諸問題への示唆を適切な形で読み取り、非常に理解しやすい言葉で表現されていることに感動いたしております。とくに先生のご専門とのかかわりでのご考究には目が開かれる思いです。
 わたくしも神学部に在職中は創世記原典を学生さんたちと毎年読んでいましたが、世間一般や日本の学会でのキリスト教や聖書や一神教についてのさまざまな固定観念や先入観から自由になって聖書のなかに秘められている「知恵」を学びとることの大切さと困難さと、そして喜びを感じさせられてまいりました。
 現在は、学校法人D大学の責任のかたわら、小さい教会でほぼ毎週、説教をしておりますが、相変わらずいつも聖書と人生の難問と悪戦苦闘をしております。先生のご著書からもいろいろなヒントをいただき、さらに精進したいと思いを新たにしております。
 先生の大切なお働きのうえに豊かな祝福が増し加えられますようにお祈りしております。
 取り急ぎ一言感謝まで。
                            SN

手紙2
 先日は、ご著書「一神教的思考様式を学ぶ―創世記―」をご恵贈くださり、恐縮でした。お手紙で、キリスト者医科連盟が結んでくださった縁と知り、驚いています。
 たいへんな力作であり、まだ十分に読み尽くせてはおりませんが、わが国における一神教理解の浅さを、きわめて鋭く、指摘されている様子、感じ入りました。
 また、創世記を背景に、現代の問題と結びつけて書いておられることに、驚きました。旧約から、現代文明批評を生みだされるには、相当、広範囲の教養が必要かと思いますが、難なくこなしておられると思いました。
 新しい旧約の読み方を教えていただいたことを感謝申し上げます。
 そして、深い問題を、恐らく若い人々を意識なさってのことでしょう、簡潔で分かりやすい言葉と論の運びで語っておられることにも、感心しております。
 私は、神学校を卒業してから、28年間、I県の3つの、日本基督教団の教会の牧師として仕えてまいりました。今はもっぱら幼稚園児から大学生までの若い人々と向かい合っています。もちろん現代の若い人々は、私が若い頃とは、さまざまな面で相違があり、価値観に戸惑うこともありますが、同時に、今の若い人たちの良さも感じています。彼らにぜひ聖書の言葉を伝えたいと願っているものですから、ご著書のスタイルは新鮮でした。感謝です。
 ご健康が支えられ、お働きがいよいよ祝されますように、お祈り申し上げます。
                            SK
 
 お二人は社会的にも学問的にも高い評価を受けておられる大家であられる。しかしどこの馬の骨とも分からない小生のようなものに下さったお手紙には謙虚な響きが共通して認められのも色々教えられた。

by rr4546 | 2009-10-10 18:24 | 宗教 | Comments(0)
T兄

 是非読んでくれたまえと送ってくれた「原理講論」を興味深く読みました。
 読み進むうちに、合同結婚式や霊感商法などで悪評高い統一教会の聖書注解と気がつきました。創造神話を陰陽道で読み解いたりするところなどは、辟易しました。ただ神の創造目的に対する肯定的な確信、人間が堕落している由来そして、復帰摂理に従い、蕩減-難しい!ーなどの営みを通して堕落から立ち直る道筋は、この著者が聖書を深く読んで会得した愛と希望に裏付けられて説かれているように感じました。馴染みのない語彙-これがまた多いーで語られているところは読み飛ばしましたが、彼の地上天国を作り上げたいという宗教的使命感については何一つ違和感を持たないで読了しました。統一教会をネットで検索すると、禍々しいスキャンダラスな事件ばかりが取り上げられています。世間から顰蹙を買うエピソードの数々も統一教会が仕出かした事件に間違いないと思いますが、同時に統一教会がある種の宗教的メッセージを伝えようと誠実に努力していることもこの本で知りました。
 カトリック教会からはエホバの証人やモルモン教と同じように異端と断じられているようですね。イエスが磔刑死したのを、メシアとして失敗したエピソードと理解するのですから。キリスト教徒には許し難い冒涜と思えるのでしょう。進化論を教えないで神の創造説を教える福音派と厳しく批判して、十字架に掛かって死ぬ人間を救い主と信じる荒唐無稽の信仰を持つことに何も違和感を持たない日本のクリスチャン。信仰生活はオカルティクですね。どちらもどちら?
 ただこんな不思議な聖書の読解で、僕が聖書のメセージの核心と理解しているところから何一つ逸脱していない世界を描くことができることに不思議な気持を持ちました。
 たまたま現ローマ教皇の「ナザレのイエス」という福音書注解と平行して読みました。福音書に描かれているイエスから、イエスが救い主であることを、今までの聖書注解を批判的に読みながら、描き上げた本です。この本のほうに色々教えられましたが、ローマ教皇の確信と「原理講論」の著者の確信には響きあうものがある。狐につままれた感じです。
 生きていく道理はいく通りもあるのではなく、シンプルなものなのでしょう。
 しかもひょっとすると、若者を導く力は、難解な「ナザレのイエス」より「原理講論」の方にある気がしました。
 息子さんが、オウム真理教の信者の告白に深く打たれた様子。そしてなぜこの世に生まれたのか、何のために生きているのかの懐疑に苦しんでいる由。
 小生も創世記注解でその答えを考えてみました。それは、オウム真理教の目指す世界と対極にある世界の中で見つかる。
 もし息子さんが興味を持つようであれば、長たらしいのを送りますよ。
 では7日にお会いしましょう。
                     

by rr4546 | 2009-03-06 11:58 | 宗教 | Comments(0)
 二年間近くを費やして創世記を読んで、一神教徒が、わたし達の見ている世界と全く違う世界を見ていることがよく判った。念のために目次を作ってみた。一神教的な立場で大きなことで言えば民主主義、憲法9条そして小さなことで言えばペニスの疼きなどを論じることができた。政治に取り組む態度や個人の倫理的規範もわたし達には馴染みがないものであった。誠に興味深い経験であった。

第一章 天地創造
1.裁きの神             
2.内村鑑三と矢内原忠雄       
3.創造神と日本人          
4.楽園からの追放          
5.カインの末裔―神への献げもの   
   
第二章 アブラハム物語
1. アブラハムの召命―サルから人へ  
2. アブラハムの旅立ちー双務的契約  
3. 恵みの契約            
4. 二重の拘束            
5. バベルの塔            
6. 漱石、西田幾多郎そしてアブラハム 
7. アメリカの布教活動        
8. 不合理な包茎手術         
9. 去勢コンプレックスー全能感からの開放
10.ペニスと子宮の疼き       
11.非合理な契約          
12.尊大か謙遜か          
13.民主主義            
14.アテナイの民主制        
15.ジョージ    
16.ホッブスの人間観        
17.リヴァイアサン No.1      
18.リヴァイアサン No.2      
19.銃の保持            
20.民主主義の欠陥―アーレントとトクヴィル
21.間違ったリヴァイアサン理解   
22.憲法9条            

第三章  ヤコブ物語
1. 邪な神の民           
2.  神の敗北            
3. 信仰を持たない人々       
4. ユダヤ教            
5. キリスト教           
6. ヘレニズム文化とキリスト教   
7. イスラーム           
8. ジハード            
9. イラン革命           
10.聖と俗             
11.国家神道            
12.聖なる世界           
13.男女平等か男尊女卑か      
14.仏教―楽園は過去にある     
15.自力              
16.厭世観と超保守主義       
17.聖なる世界―欲深いヤコブ    

第四章  ヨセフ物語            
1. 神の御業             
2. 生きるための文法書        
3. 内村鑑三のヨセフ理解―ヨセフは小なるイエスである
4. 聖書記者のヨセフ理解ー隠れている希望    
5. 矢内原忠雄のヨセフ理解    
6. キリシタン弾圧―神と神の争い 
7. イエスは信仰世界しか語らない 
8. 主権在民           

第五章 創世記とわたし達       
     
1.選手とコーチ   
2.新嘗祭
3.根源的な自己愛―仕える人生
                    

by rr4546 | 2009-01-17 00:27 | 宗教 | Comments(0)
O兄
 暑い夏を無事乗り越えたとのこと。羨ましい限りです。小生今京都で行われている老健学会に若者の尻を引っぱたいて6題の演題を出して、手取り足取りの指導でかなり消耗しました。
 淡路に骨を埋める。大変ですね。ただ創作活動を続けるためにはよい環境かもしれませんね。思いのたけを書き込んだ作品を期待しています。「孤高のメス」や「メスよ輝け」を越える作品を書かなければ君自身も満足できないでしょう。小生の方は心積もりしていたより長生きしていますが、これからも平々凡々でありたいと思っています。いや平々凡々しかないというべきか。
 お嬢さんのかようF女学院の学生に宛てた元オウム信者K.H.氏の手記を読みました。「生きる意味は何か?」,彼の言葉で言えば「生まれてきた目的は何か?」と若者らしい真摯な問いかけから始まった彼の信仰体験がリアルに描かれていて誠に興味深い。これほどまで冷静にそして客観的にオウムの世界を描いたものを目にしたことがありません。H氏の、若者がカルトに魂を奪われて、自分と同じ過ちを犯さないようにとの深い祈りを感じました。
 ただ改めて、オウムとキリスト教の信仰世界が全く異質なものであることがーそのことは繰り返し指摘してきたのですがー一層判りました。オウムでは解脱して至高体験が得られるらしい。キリスト教信仰が創造の神と違って自分が多くの過ちをおかし、自分一人でできることはちっぽけなことに過ぎないことを知ることから始まるのとは実に対照的です。人間は苦しみから解放されて神のような世界を手に入れると、テロリストと何も違わない唯我独尊の不遜な存在になって、他人を破壊するだけではなく、自己をも崩壊させるというのが道理だということがよく判りました。オウムとキリスト教で教える救いは全く異なるものである、一言で救いといいますが色々な救いがあることをもう一度学びました。今は若者に、揺るぎのない神のような存在になることが本当の救いではない、人様の力を頂いて、やっと一人前であると素直に頷けることが、本当の希望を持つことや人を愛する出発点になることを、伝えていきたいと思っています。
 それにしても元オウム信者、多分死刑判決が確定していると思いますが、自分の信仰を振り返えることで今は正気に還っていますが、彼を苦しめた生きることの意味は何かそして彼の言葉で言えば「むなしい」という問いに対して今でも何一つ答えが見出せないで自身も戸惑っていることがよく判ります。いや若かった時より彼を苦しめる虚無感は一層深くなっているように思います。オウムの世界が幻想・妄想であったことが理解できたことによって、一層彼が生きることに対して深い懐疑を抱き、今なお深い懊悩の中にいることが僕の心を打ちます。人を無意味に殺めたことに対する悔いは本物ですが。
 ゆっくり時間を取って、K.H.元オウム信者の心の歩みの何処が道理に外れているかを書いて送る積りです。多分それを明らかにしなければ、超能力を目指すカルト宗教にこれからも若者が惹かれ続けると思います。素敵なお嬢さんもオウムのような反社会的な行動は絶対しないが、出来れば元オウム信者の体験した煩わしい日常から離れた宗教的法悦,自我を克服したもどきの悟りを一度でいいから味わってみたいと願っておられるような気がします。オウムの信者が世俗のしがらみを全部捨てて救いを求めた潔ぎよさに心のどこかで惹かれているのではないでしょうか。お嬢さんが純粋で、一途なだけに。F女学院の先生方は学生がカルト集団に奪われないのを願って、K.H氏の手記を回覧したと思いますが、若者はその先生方の意に反した思いに捉えられている可能性は高いと思います。
 お嬢さんにK.H.氏の手記を引用してもいいかどうか聞いておいてくれますか。涼しくなったら又京都でお会いしましょう。取り急ぎお礼まで。
寮隆吉

by rr4546 | 2008-08-29 01:03 | 宗教 | Comments(0)

婚約の報告に来た若者へ

Y君

 君のような何でも自分の尺度で生きることを旨としている者が、新しく二人で歩む準備をしているのを知って嬉しかった。いいお嬢さんではないか。 君には勿体ないくらいだ。
 お祝いの食事の時にも話したが、個性も生まれも違う二人が力をあわせて生きていくよい方法を見つけるのは、人生最大の難事業の一つだと今しみじみ思う。ただ有難いことに、その方法を見つけるために全精力を注いでも、十分やり甲斐があるということだ。そういう意味で、気楽な生活に一区切りつけて、二人の歩みを始めたことを心から応援したい。
 自分は常識があるから、まーまー、なーなーとうまくやっていけると思っているだろう。事はそんなに簡単ではない。何せ食べたいものも一緒、やりたいことも一緒などと頭の中で考えるとあるように思うが、そんな一心同体の二人の生活は妄想の中だけにしか存在しない。一緒に生活を始めたら、宇宙人と生活しているのかと目を丸くすることや、衝突や喧嘩は避けがたい。
 自分の尺度だけではなく、相手の尺度にも耳を傾けて、その尺度を大切にして、自分の尺度を深めるのは大人として成熟するために欠かせない。成熟した大人でなければ個性の違うもの同士が仲良く生活するのは夢の夢だと思う。
 時々一緒に海外旅行をする二人とも医者の医者夫婦の友人がいる。彼らは百貨店に買い物に行っても、一緒に入り口から入って、別々に買い物をして、又一緒に帰ると話していた。何かを買おうとすると、二人の意見が違ってもめる。それを防ぐための知恵だという。これも一つの方法であろう。
 ただ自分の尺度なぞ知れたものだ。個性の違った他人の尺度に耳を傾けると、生き方が広がることは間違いがない。この道理を知っていながら多くのカップルは二人で生活をしながら、他人の尺度に耳を塞いで、自分の尺度で生きて、狭い生活のままで二人の生活を続けている。勿体ない話だと思う。
 成熟するためには、知性をフルに使って教養を高めるしかない。本を読んだり、音楽会に出かけて教養を高めて、大人の知恵を磨き続けてもらいたい。いや自分は思慮深いから、常識を磨けば成熟した大人になれると思うことであろう。確かに君の知性は高い。ただ教養のない成熟は、自分は成熟しているつもりでも、傍から見れば子供のレベルにとどまっている場合が多い。
 面倒な本を読んだり、勉強したりして、教養を磨き豊かな二人の生活を送る準備を命がけでして欲しい。 自分が考えていることは、先輩達は大抵考えている。先輩の本を読むと、気がつかなかったことに目が開かれたり、自分の考えを深めることに役立つと思う。貪欲に他人の意見を取り込んでほしい。

by rr4546 | 2007-11-22 16:38 | 宗教 | Comments(2)
 次回に一神教と国家神道を比較しながら、わたし達は一神教信仰とは全く無縁な世界に住んでいるわけではないことを論じます。その前に評判の悪いいブッシュを支持するキリスト教右派、福音派について考えておきたいと思います。国家神道を理解するためにどうしても福音派のことを知っておかなければならない。

キリスト教右派、福音派
 日本の神学者の紹介によるとキリスト教右派、福音派は、聖書の記述をそのまま信じて生きていこうという、キリスト教原理主義者の人たちのことを言うらしい。福音派という派があるのではなく、カトリックにもプロテスタントの中にも福音派と呼ばれる人たちはいる。進化論ではなくて神による天地創造説を信じ、イラク戦争を続けるブッシュの有力な支持母体となっているとのこと。それ以上についてマスコミからもアカデミズムの世界からもほとんど情報が出されません(私が見落としているのかもしれない)ので、福音派に関して巷間言われている知識以外は何も持ち合わせていません。世界のリーダーである国でアナクロリズムのキリスト教徒が教育や政治にまで影響を及ぼす事態がよく理解できず、何か釈然としない感じを持っていました。70年代中ば過ぎセントルイスにあるワシントン大学の血液/腫瘍部門で3年間くらい研究生活を送りましたが、福音派を名乗る気持ちの悪い人たちと接触した記憶もない。
 キリスト教関係の研究に携わるプロテスタント系の神学者たちの主催する公開講座に出かけると、いつも福音派は悪役として登場し、イラク戦争も彼らの排他的な考え方からくるキリスト教原理主義を押し付けるために行われているとの解説があり、そんなものかと勉強させていただいています。キリスト教は好きだけれど、福音派は嫌い、いや嫌悪を通りこして憎しみを抱いておられるのが分かって、この調子でキリスト教について何も知らない学生に教育を行えば、アメリカ、ブッシュ、イラク戦争、福音派、原理主義者、気持ち悪いという、シンプルな嫌米感情、いや嫌キリスト教を植え付けるだろと他人事ながら心配しています。その大学に所属する教会の温厚な牧師も、神学者と同じように現代の悪の一つにアメリカの福音派があることにたびたび言及されます。福音派に対する憎しみの感情は日本のキリスト教関係者の間に広く蔓延しているのでしょう。何か理由があるに違いない。
 情報がない中で、福音派と呼ばれるキリスト教原理主義者がどういう経緯で、市場原理主義国家で誕生し力を持つに至ったかについて考える手掛りはありません。神学者に言わせるとアメリカはもともと現代では珍しい宗教国家で、原理主義的な宗教が生まれる土壌があるとのこと。これで納得し一件落着した感じが持てないのは当然です。
 創世記注解を書き進めていて、宗教には個人の魂を豊かにする働きと、共同体を統合する働きがあることに気が付いた時に、私なりにアメリカでキリスト教原理主義的な考えを持つ福音派が台頭してきた謎が解けた感じがしました。古代では私が実際見ただけでもルクソール神殿、ピラミッド、パルテノン神殿、アンコール・ワットなど、巨大で神秘的だが全く無意味がわからない建造物、多分神殿だと思いますが建てられています。権力者が祭祀を司り神の言葉を取り次ぎその権威で共同体を束ねていたのでしょう。多様な人たちをある方向にまとめるために神は働く。
 福音派の人たちの信仰もアメリカを統合する一つの力になっているのではないでしょうか。乏しい知識のままでの考えですので、独断といえば独断ですが創世記理解のために役立つと思い纏めておくことにしました。福音派と国家神道と一神教の違いを理解するためにも有用だと思います。
 東西冷戦下でのケネディー、ジョンソン、そしてニクソンの3人の大統領が関わったベトナム戦争(1960-1975)、一時は50万人以上のアメリカの若者がベトナムに派遣され、多くの犠牲者を出しただけではなく、数々の非道な虐殺事件を引き起こしました。ベトナム戦争の悲惨さと無意味さはいまのイラク戦争のそれらを凌駕していたかもしれない。70年代初めから若者を中心にアメリカ全土に反戦運動が広がりました。多くの若者の死があり、出口が見えない戦いを続けるのですから当然ですね。圧倒的な軍事力を行使しながら、何の成果も得られず、15年間という長い戦いの末に、建国以来始めて戦場から敗退しました。国民の間には政治に対する怒り・不満がうっ積し、多くの人は理想を掲げるアメリカに絶望したことでしょう。将来の見通しがないことに対する無力感も国全体を覆ったかもしれない。1977年頃のアメリカでの研究生活の間に、ベトナム戦争がアメリカに大きな傷を与えたとの実感はありませんでしたが。わたしの気が付かないところで、社会的そして個人的な面での精神的な混乱があったのでしょう。
 当時起こった興味深い社会現象のもう一つは、出口のみえないベトナム戦争と関係していると思いますが、伝統・制度などの既成の価値観を否定して、社会からドロップして自然への回帰を夢見るヒッピーと呼ばれる若者の出現をあげることができるでしょう。この風俗はわたしたちの国にもすぐに伝染しました。長髪でラフな服装をしたギターを弾く若者がわたし達の周りに溢れました。ヒッピー族と呼ばれた彼らは自然と愛と平和と芸術と自由を愛して既成の社会を嫌って自由気侭な生活を送りました(Wikipediaより)。
 政治権力の権威失墜、既成の価値観の崩壊、あらゆる束縛を嫌うどちらかといえばアナーキーなヒッピーの出現、同時に1964年キング牧師たちの努力によって黒人開放のための公民権法が制定されました。不幸なことにケネディーそしてキングは暗殺されました。私たちの想像を超える暗い面が曝け出されました。新興国、日本も侮りがたい経済力を蓄え、アメリカ経済の没落も囁かれ、日本を倣えなどとわたし達の自尊心を擽る論調がマスコミを賑わしました。
今振り返ると当時のアメリカは現在の日本の政治的および社会的状況以上に、混迷を深め、閉塞状況の中にあったのではないでしょうか。従来の価値観に代わって新しい価値観が模索された。かなり深刻な曲がり角に差し掛かっていた。社会の連帯が脆弱となり、家庭も崩壊して、進むべき方向も見失しなっていた。勿論社会的そして個人的なモラルが崩壊した事件も相次いだ。権力者の盗聴や教育現場の混乱、そして離婚の増加など規範を無視した事態が次々起こったと記憶しています。マリファナなど一時的な陶酔感をもたらすドラッグも出回りはじめた。当時の社会背景を調べる資料が手元に全くありません。間違いがあれば是非指摘してもらいたい。
 もう一度アメリカは新しい目標に向かって出発しなければならなかった。荒んだ国民一人一人を再統合して崩壊しかけた政治、経済そして道徳観を立ち直らせる必要に迫られた。大国の威信を取り戻さなければならなかった。アメリカは多民族国家で多元的価値を許容していますので、わたしたちの社会より一層多くの人たちを統合する強力なイデオロギー、規範が必要とされたのだと思います。
 無原則で生きていくことが蔓延った時代背景の下、キリスト教精神でアメリカを再統合し、世直しをしようとする人たちが出てくるのはごく自然なことだったと思います。生きる規範やアメリカの進むべき道を聖書に求めた人たちがキリスト教右派、福音派の人達と呼ばれているのではないでしょうか。理想として掲げる民主主義、自由、平等そして人権の尊重という理念を生み出す知恵の書いてある聖書に立ち返らなければならない。閉塞した中で聖書は忠実に読まれ、書かれた教えに従って生きることが追求された。アメリカにあるまとまりと、微かながら新しい道徳的規範が芽を吹き始めた。
 キリスト教が、混迷した社会に住む人たちを再統合する最も強力な力を持っているかどうかについては、多くの意見があるでしょう。再統合のために聖書以外の方法も模索されたに違いない。歴史家が将来この選択が正しかったどうかについて検証するでしょうが、新しい国家であるアメリカではキリスト教をリバイバルさせて国民を精神的に統合させるという道しかなかったというのが正しいのではないでしょうか。当然そのキリスト教は近代的装いのものではなくて、極めて保守的でかって成功体験のある原理主義的なものであった。彼らはこのムーブメントを先導した。悪役でもなければ、世界を混乱させる元凶でもない。私たちにも何も迷惑をかけていませんからね。
 仄聞するところによると、妊娠中絶の反対、受精卵を使うES細胞研究への規制、同性愛結婚の法的承認への反対、家族制度の再確立、わたしもすべてに賛成しているわけではありませんが、ごく当たり前の古きよき時代の聖書の教えに従う生き方を再興しようとしていることが彼らの主張から読み取れます。聞きかじりですが、最近は環境破壊による地球温暖化への取り組に熱心だそうです。神学者の解説を聞いていると、イスラーム国をキリスト教化しなければならない、仏教国日本にキリスト教を布教しなければならないかの如くの、過激で独善的な主張をしているように錯覚しますが、かっての良き時代のクリスチャンホームを取り戻すことが彼らの目標であるように思います。その上自分たちの価値観をすべてに強制しようとする気配もないように思う。周囲の冷たい無理解の中で二人のカウボーイが愛し合うホモ映画を演出した中国系アメリカ人アン・リーに2006年のアカデミー賞の監督賞が与えられました。同性愛は市民権を得ているように思いました。その方の趣味はありませんが、二人の愛の切なさが美しいブロックバック・マウンテンを背景として良く描かれていました。アン・リーが映画界から追放された、テロの襲撃に遭ったという情報に接しません。

福音派に対する憎しみ
 日本では福音派に対して、ブッシュ、非寛容、独善的、原理主義者、イラク戦争支持者とあらゆる負のイメージが貼り付けられて論じられます。しかも理解者であるべき日本のキリスト者は嫌悪どころか憎しみを抱いた発言を繰り返されます。福音派をわたし達ほど単純に悪役として扱い、アメリカやイラク戦争の背景を読み解いている国は、日本以外にはないのではないでしょうか。誰が福音派を貶めるような偏見をわたし達に持ち込んだのでしょうか。知識人といわれる学者、神学者、文化人そしてマスコミの責任は大変重いと思います。私たちとは逆に、福音派の人々が活躍することを評価している人たちも少なからずいるに違いない。福音派がいなければアメリカだけではなく世界が無原則で無道徳なカオスに陥ったと考える人もいるでしょう。私たちの周りには福音派を擁護する人は全くいませんが。
 先日キリスト教の保守派の大物(名前は忘れました。色々な大統領とも親しかったらしい)が死んだとの報道に接しました。彼らがキリスト教精神に従って、どちらかというと自由恋愛、フリーセックスのイメージがあるアメリカで、制服まがいのスーツをきた若者が学ぶ大学を作って、聖書を生きる規範とする若者を社会に送り出しているのを知って、一層わたし達の見方はちょっと偏り過ぎているのではないかと思いました。一神教に対する無理解、憎しみが深く関係しているのでしょう。
 いずれにせよ福音派を嫌う人は、他者を絶対に愛せない人たちだと思います。他者が愛せないとは、神を愛せない無信仰者だと思います。学生も信者も愛していないと思います。
 福音派の人たちは教育を始め、家庭生活や社会生活も聖書の教えを基本にやっていこうとする強い意志を持ち、一貫性のある誠実さでその志を追求している人たちだと理解しておきたい。たとえ誤解であっても。遠く離れた日本でアメリカの福音派の人たちの悪口を言っていても、彼らが悔い改めて何か状況が変わるとも思えない。私たちの悪いパターンで人の悪口に時間を使って、自分の欠けていることに真正面から取り組まないで、自尊心だけを膨らませて、自分への厳しさを欠いた怠慢で時を過ごすという毎度のパターンを若者に伝えることだけは避けたい。
 福音派、ブッシュ、キムジョンイル、中国、イスラエルそして朝青龍とよくここまで人を貶めるようなことを言い続けて心の安定が保てるのか不思議な気がします。2007年9月1日のA新聞の朝刊を見ると、国の補助金の不正受給、補助金交付先の親族からの金品の授受、政治資金の領収書の5重の使い回しによる政治活動費の計上とネコババ、虚偽記載と社会的ステータスのある人たちのセコイ振る舞いを見ていると、他人様の悪口に時間を割いている余裕は現在のわたし達は持っていないとしみじみ思います。法に従わないで若者にどうして規範を守ることの大切さを教えることができるでしょうか。

憎しみからの開放
 福音派は悪人なのか、古きよき時代のクリスチャンホームの復活だけを願う人たちなのか、どちらが真実であるのか私には断じようがありません。
 福音派は聖書の教えを規範として生きていこうと願っている人に過ぎない、例えこの見解が間違っていても、そういう仮定の下で他者を理解する知恵を今こそわたし達は持たなければならない時に来ているように思います。相手を貶めていても何も生み出しません。自分の品格を卑しめるだけです。
 私たちは他者に義があり、他者に愛があるという立場を取る知恵と無縁なところで生きているのでしょうか。自分に義があり、自分は誰よりも慈悲深いと信じるしかない精神世界の中で生きているのかもしれない。
 一方一神教徒たちは他者である神を発見したお陰で、他者に義があり愛があると思うことにあまり抵抗を感じない世界に住んでいるかもしれない。いやその思いを育てることに励んでいると思います。それが信仰生活ですから。彼らがいつも神に従順だと言っているのではありません。ただ神に愛があり、義があるということを心に覚えておくだけでも、生き方が変わることはアブラハムやヤコブの生き方を見れば判ります。他者に義があり愛があると信じて生きていくのと、自己に義があり慈悲深いと信じて生きていくのとの間には、想像できないほどの違いがあることだけは良く知っておきたいと思います。
 他者ではなくて自己に義がある、他者ではなくて自己に慈悲があると考える背景には、「天上天下唯我独尊」とおっしゃった釈尊の教えに深く影響されて育んできたわたし達の無神論的な精神的風土があると思います。自尊心を批判的にみる眼差しがなければ、自己の正しさと、慈悲深さばかりを言い張るしかないのです。神学者や文化人のように、自分のことを棚に上げて、悪口に精を出す。挙句の果ては自尊心にしがみ付いて、他者に対して憎しみを募らせる。他者を貶めて、自己正当化に励む。少ししんどい生き方ではないでしょうか。
 相手が間違っていて自分が正しい、自分は思いやりがあるが相手は薄情であると思っても何も生み出さないことをしっかり肝に銘じるべきだと思います。
 ともあれ他者は不義で愛情が欠けていると思うわたし達の思考パターンを他者に義があり、愛があると思えるよう作り変える時が来ています。勿論,自分が正しく、他者が間違っている場合もあるでしょう。絶対の真理がない以上、どちらが正しい、どちらが間違っていると軽々に判断できないでしょう。しかし自分が正しと考えるより、他者が正しいと考える方が、楽で自分が成長できるばかりです。逆に自分が正しくて他者が間違っていると考えていると当座は気分が落ち着きますが、しばらくするとしんどくなってくるのではないでしょうか。正しい正しいと言い張り続けるためにはかなりのエネルギーを必要とします。いつも正しい人などいませんからね。
ヤコブは沈黙している神に対しても神に義があり愛があると考えることで、自分を磨き続けました。それに反してわたし達は、自分が神に近いと考えているために、自分に義があり他者が不義で、自分は愛で他者は薄情であると考えがちで、自分を磨く機会を少なくしています。どちらが楽でどちらが愉しいか良く考えなければなりません。
 私の働いている医療の現場でも、悪いのは自分ではなくあの人である、わたしが好意をもって接しているのに、あの人はわたしを馬鹿にしているという誤解で始まるトラブルは後を絶ちません。その争いは不信や憎しみしか生み出さない不毛なものです。お互いを貶め合うだけです。しんどい生き方で喜びのない生き方のような気がします。自尊心を満足させても根拠のない自惚れだけを生み出して、それ以外の未来に続く知恵を決して生み出しません。
 連れ合いとの関係もそうではありませんか。悪いのはあの人で、これだけしてあげてもあの人はわたしのことを全く考えないで我侭ばかりを言っているとの、罵詈雑言の中から愛は決して生まれません。憎しみを生み出すだけでしょう。よしんば間違っていても、正しいのはあの人で、いつも心を砕いてくれるのはあの人であると考えてみてください。何か違ったものが生み出されてくるような気がします。
 安易で自尊心に縋る思考パターンが福音派に対する憎しみを生んでいるのです。悪いのは自分で、我侭を言い過ぎたとの仮定の下で事態を収めるほうが遥かに楽で、実りが多いでしょう。
 神学者がこれほどまで福音派を憎み続けることができるのですから、私たちはまだ十分大人の知恵を持っていないということでしょう。知恵を深める道を探さなければならないと思います。
義と思いやりは私にあって、間違いと薄情さは相手にあるとしか思えない、唯我独尊的な世界に住んでいるといつも自分を戒めることが求められていると思います。ここらで、我慢に我慢を重ねて、相手に義があり、相手に愛があると思って生きていくことを一度試みても面白いのではないでしょうか。
 相手の悪口をいくらあげつらっても、相手の薄情さを恨んでいても、相手は全く代わらないばかりか、自分の心が貧しくなっていくばかりですから不思議です。私たちの信頼する政治家の隣国との外交を見ていると、この一神教的な基本的な考えがないために、拗らせなくてもいいことをこじらせて、日本を孤立させているように思えて仕方がありません。福音派の悪口を言っているより、福音派から私たちの欠けていることを学んで、少しでも自分の愚かさを乗り越える方がいいに決まっています。憎しみから開放されましたか。

進化論か天地創造説か
 わたし達は、福音派をひと括りにして、この科学の進んだ現代に進化論を教えないで神の天地創造説を教える阿呆と笑っています。先祖をたどれば高天原に住んでおられる神に至る一族の臣民だと信じて、御真影と教育勅語を納める奉安殿を真っ先に大学の正面に作って敬礼した先輩のことを忘れてはならないと思います。
 先日遠い親戚に当たる童話作家夫婦と会食をしました。現在の子供は太陽が東から出て、西に沈むのを見ているので半分くらいは天動説が正しいと信じているとわたしが話したところ、さすが童話作家、お二人とも太陽が動くのに地動説が正しいと言う子供こそ可笑しいと窘められました。成る程、お日様が動くのを見ている子供に科学的根拠を使って地動説の正しさを信じ込ませるほうが余程無理かもしれないと納得しました。進化論の科学的根拠をもとにして、サルからお前は進化したと教えても、子供は納得しないかもしれない。すぐ神のごとく振る舞いがちなわたし達も小さい時に、被造物であること学ぶことの方が進化論を学ぶより大切かも知れない。「若い時に創造主を覚えよ」と聖書は言っています。
 進化論教育より神の天地創造説を教えよというのは科学的知識に全面的に信頼するのではなく、人が生きていくためには宗教的情緒も大切であるといっているに過ぎないのだと思います。
 純粋な感性を持つ子供に天動説ではなく地動説を教えることが本当によいことかどうか。いずれ理解するであろう進化論を子供に教えるべきか、天地創造説を教えるべきか軽々に判断してはならないと思います。特に情緒を大切にすることを伝えたい私たちの子供たちには。
 イラク戦争の大義についても、福音派の人たちの特徴と役割についてもわたし達はグローバルスタンダードとはかなり違ったイメージを持って、ピントはずれの議論をしているかもしれません。マスコミ、政治学者、神学者そして文化人が多くの情報を持っているのに出さないのか、偏見でその情報を秘匿しているのか、理解できないで我流の説を垂れ流しているのかよく判りませんが、わたし達は世界で起こっている事態について十分理解しないまま、福音派やイラク戦争を論じているのではないかと思ったりもします。専門領域を持つ学者の責任は重大です。誠実で公平な情報提供をする義務を持っているのです。いずれにせよピントはずれな議論に熱中しないよう心掛けなければならない。

by rr4546 | 2007-09-01 16:03 | 宗教 | Comments(3)
ユダヤ教徒の日本人-内田樹
 旧約聖書のような私たちにとって身近でない教典を、長い間医療に携わっている宗教の門外漢が解説するといっても、話をややこしくするばかりかもしれません。ただイエスに子供があることのどこにキリスト教徒たちが居心地の悪さを感じるかを理解するためには、無垢な神の子イエスを神とする信仰が生まれた背景を知っておく必要があると思います。我慢して耳を傾けてください。
 一神教徒たちは旧約聖書を真面目に学んでいるようですが、旧約聖書を神の書として公的あるいは私的生活の規範としているのはユダヤ教徒でしょう。ユダヤ人と聞くと、ほんのちょっと前は、パレスチナをそして最近ではヒズボラを狂ったように攻撃している厄介な人たちとのイメージが浮かび、益々旧約聖書など開きたくないと思いますね。子供・老人そして女性も見境なく殺害することを厭わない?人たちの心の拠り所を学んで何になるか?
 ユダヤ人は今世界で何人いるか知っていますか。イスラエル人を名乗る人は現在世界に約1400万人いるといわれています。世界人口の0.2%を占めるに過ぎない。轟々たる非難に抗して、戦闘ばかりをしていたり、時には世界を支配しているかのごとくの陰謀説が流されるならず者?集団なら世界の人口63億人あるいは日本の人口1億3000万人から考えて5000万人位はいるだろうと想像しますが、イスラエル人をすべて合わせても東京に住んでいる人くらいしかいない。イスラエルには全ユダヤ人のうちの500万人位しか住んでいない。小国中の小国です。エジプト、レバノン、シリヤ、ヨルダンに囲まれて、近くにはイランのようなユダヤ人を中東から追い出そうとする豊かな産油国があります。Minorityもminorityの人たちの信仰世界を知って何の得になると思うことでしょう。
 その上身近にユダヤ教に親しんでいる人がいますか。宇宙人にも等しい存在がユダヤ教を信じる人という感じですね。実際私自身もユダヤ教徒を名乗る人に会ったことがない。ユダヤ教を信じる日本人がいるなど想像を超えています。最近ユダヤ教の知の枠組みを学びそれを血と肉とするために学問の道を励んだと率直に告発した日本人の本に出会いました。「ユダヤ教に帰依して救われた」という真摯な信仰告白の本です。日本人の中にもユダヤ教に深い共鳴を覚える人がいる。軽々に私たちには無縁な教えと言ってはならないでしょう。
 興味深い本は内田樹著「私家版・ユダヤ文化論」です。かって日本人はユダヤ人と同祖と考えユダヤ人と日本人は選ばれた兄弟であると主張したことがあった。結局は「反ユダヤ主義」を唱えるようになるという明治以降の日本人の魂の遍歴を概観して、日本の反ユダヤ主義はキリスト教徒やイスラーム教徒の反ユダヤ主義とは異なるが、ユダヤ教の核心に触れないで、自己や世界(他者)に対する理解を成熟させなかったために、日本人はユダヤ人のように「霊的長子権」を持つ最も秀でた血統の民族であるとの誇りと、すべての争いはわが国に責があるのではなくて、他国の陰謀にありとの政治学を手に入れてしまった。この二つの妄想を病むことによって、日本人はある種の「疾病利得」を得てきたとびっくりするような厳しい日本人論を展開しています。彼の見解が正しいかどうかについては、ここでは触れないでおきましょう。ユダヤ教について何も知らない時にそんな議論を始めたら煙たがられるばかりですからね。ただユダヤ教的立場から見ると私たちは病み続けるほかないと躊躇なく断ずる日本人ユダヤ教徒がいるのには驚きました。さらに彼はキリスト教徒やイスラーム教徒が、ユダヤ人を迫害する根拠は日本人とは違って、彼らが「ユダヤ的知性(ユダヤ人の信仰世界)をあまりにも激しく欲望した」、欲望するわけですから、ユダヤ人を愛するはずですが、その欲望を亢進させる最も効率的方法として、ユダヤ人を愛するのではなくて、無意識的にユダヤ人を限りなく遠ざけるという情念の力のほうを採用したことに由来していると分析しました。欲望を増幅させるために、欲望の対象を隠蔽するという戦略を無意識のうちにとる、ユダヤ人にとっては誠にはた迷惑な方法が、よき隣人の中で力を揮うという、内田氏の主張については充分には理解できませんが、愛したいと願いながら、欲望を増幅させるために、自分を投げ出すのではなく、憎しみを利用するという不思議な心的メカニズムはありではないか・・・・・。ともあれ内田氏はユダヤ教の精神世界に無理解なものが他者を持たないで、愚かな振る舞いをするし、新しい発見(不可知な恐ろしい未来を生きること)もできないと説いています。
 あとがきで「レヴィナス老師(敬虔なユダヤ教徒で20世紀最大の思想家の一人)の骨格をなしているユダヤ的な思考をどれくらいできるようになったのか、私には判断できない。でも、この一冊が私が老師の墓前に捧げる何度目かの『手向けの花』である」と謙虚に述べていますが、ユダヤ教の奥義を掴んだとの自負を感じました。彼をユダヤ教徒といわずして何というか?
 へそ曲がりなことばかりを言い散らしている変なおじさん、あるいは「内田樹」のことなど聞いたことがないと文句を言われそうですね。そんなマイナーな叔父さんがユダヤ教徒だからといって日本人にも旧約聖書から何かを学ぶことができるといわれてもとぶつくさいっているのが聞こえてきます。
 彼の著作一覧を見ると結構多くの本を出しているということが分かるでしょう。念のために今評判のフリー百科辞典「Wikipedia」で「内田樹」を引いてみると「合気道六段、居合道三段、杖道三段のスポーツマンでフランス現代思想を専門とする。映画論や武道論まで幅広く活躍。神戸女学院総合文化学部教授。『どんな問題にも即座に答える』特技を持つことから、その考察は、幅広く現代の様々な事象に及ぶ。団塊の世代にわずか遅れた迷い多き『おじさんたち』には、『新たな指針を示し、生きる糧となる』という評価もある」と紹介されています。合気道六段と聞いただけでバリバリの日本人だと推察できますね。その上、居合道三段。居合動てなんですか?オリンピック種目にないので日本古来の武道でしょう。マッチョな代表的な日本人ですね。Wikipediaには書いてありませんが、「ユダヤ教徒である」と付け加えても抗議はこないと思います。ユダヤ教の教典である旧約聖書に少しは興味が出ましたか。

寛容なのか?無関心なのか?
 名前も聞いたことのない女子大の先生がユダヤ教徒だからといわれても、旧約聖書を読んでみる暇も興味もない、もっともな言い分だと思います。葬式には坊さんを呼んで、初詣や宮参りには神社に行って、結婚は教会で挙げて、何も欲求不満に捕らえられないし、日々の生活に何一つ支障がありませんからね。一部の文化人の言うように私たちは神仏習合の信仰世界に住んでいるのでしょう。あらゆる神々に対して寛容である私たちの態度を、文明の争いに明け暮れる一神教徒たちは見習うべきであると仲間内で言い合っています。実際、キリスト教保守派やイスラーム教原理主義者の振る舞いを見ていると、私たちの信仰との距離のとり方が一番いいような気がしますが・・・。
 仏教、神道そしてキリスト教の説く知恵を生きる糧にして、仏教とも神道ともそしてキリスト教ともお付き合いしているといいのですがね。何も知らないのに自信満々で、神々に寛容だと言っている。神道がどのような教えを持っているかについて知っている人もほとんどいないと思います。そういう私も何も知りません。これだけ信仰世界に対して無知というか無関心で世界の人たちの信頼が得られるかということになると話は別のような気がします。宗教をアヘンとして否定した共産主義世界は今はないですからね。
 寛容といいながら、キリスト教福音派のブッシュの単純さを笑ったり、あるいはムスリムのジハードと称する自爆テロに呆れて、一神教徒全体に対する憎しみを煽り立てる言説だけが私たちの周りには満ち溢れています(森孝一: 「ジョージブッシュ」のアタマの中身)。牧師の資格を持つ神学部の教授も、同じようなことを言って若者を惑わしています。キリスト教徒は自己絶対化と排他的な考えを持つために信仰を持っていると説いています。本当ですかね。寛容なのか無関心なのか。学ばないで憎しみを持っているだけで、「美しい国」として立っていけるかどうか心配です。
 弱い者虐めをしていると陰口を叩きながら、ブッシュと会えば、自由と民主主義、人権、法の支配、自由な競争という価値観を共有する最も信頼できる同盟国と褒め上げてニコニコしていなければならない。憎しみのターゲットである本人の前で満足そうにはしゃいでいる指導者を見て若者はどんな感想を持つのでしょうか。もっと真の理解の上に立って同盟関係を築かなければならない、そうでなければ友達も恋人もできないぞと思うのではないでしょうか。同盟国なら同盟国らしく過ちに対しては、過ちを誠実に指摘しなければならない。卑屈な振る舞いをしてでも生き残れと若者を奨励するようなことはあってはならない。年寄りの杞憂であればいいのですが。
 ムスリムたちの心をまったく理解しないで「石油を売ってください」とお付き合いをしていると、安定な信頼関係を維持していくことは難しい。経済問題だけでは、心から打ち解けあうあうことは至難でしょう。神々に寛容であるといいながら、私たちは信仰・宗教に対して無関心なだけなのかもしれない。日本一国で地球で生き残れればいいのですが。日本の伝統・文化は大陸や、ヨーロッパから多くのこと謙虚に学んで、豊かな自然に育まれて、出来上がったのだと思います。門戸を閉じて、異質な文化に耳を傾けることを怠れば、新しい世紀を豊かに美しくすることは難しい。

神社への参拝
 神社に出掛ければ、手水を取り、修祓(しゅばつ)を受けて本殿に昇り、玉串を奉げる。その後、二礼二拍手一礼して、退出の時に、御神酒を受け取るという参拝形式しかない。ポケットからお賽銭を投げ込んだり、一礼だけで「哀悼のまことを捧げ」て来ましたといっても何も心に引っかるものを覚えない。初詣の時も、お賽銭を入れて、しめ縄にくくられた鈴-何か意味があるのかな?ーをジャラジャラ鳴らして参拝して今年もよい年でありますようにとお祈りしていますからね。ただこれは教会の中で、数珠を手にして祈りを捧げるのと同じ滑稽な振る舞いであるとの想像力を働かせる必要があると思います。かっての総理大臣が神社の祭祀儀式に則らないで参拝する姿を見て、お祓いをする宮司が無礼者と叫んだという記事を読んだことを思い出しました。神社に祀ってあるのに、神社の儀礼に従わないで、どこかの講堂に祀ってあるかのごとく、自分流の仕方で英霊に頭を下げる。裏千家流の主の催した茶席で、作法を無視して片手でお茶碗から濃茶をぐい飲みしてうまいと叫ぶ。ご婦人方から睨まれると思いますが、人気がありますからね。神道は日本古来の宗教を源として現在に伝えられたものでしょう。今でも私たちの身近に神社があり、誰でもが気楽に出掛けられますが、ホールやホテルのロビーとは違った神聖な場所だと思います。
 先日、上鴨神社の国宝である本殿と権殿を参拝する機会がありました。神主に身を清めてもらった後に、数珠を手にして参ってもいいとも、あるいは五体投地のようなお参りでも何でもご自由にではなく、二礼・二拍手・一礼でお参りしてくださいと念を押され中に案内されました。それに従うことが神社に参拝する礼儀だと思いました。神社に祀ってある以上、ご祭神には神社形式でお参りするしかない。
 皮肉な言い方をすれば、指導者は意識しているかしていないかに拘わらず、国のために命を捧げた人たちの本当の哀悼の仕方を知っているといったほうがいいのかもしれない。靖国神社での参拝にこだわりながら、その祭祀儀礼に従わないで自分勝手な方式で哀悼の誠を捧げているのですから、神社であろうと教会であろうとモスクであろうとシナゴーグであろうとどこでも「哀悼の誠を捧げられる」といっていることになる。回りくどい言い方ではなくて、結論を言えば、特別な神社でなくて無宗教の施設で国のために死んだ人の慰霊と哀悼を捧げるべきであると行動で示している。実際全国戦没者慰霊祭は武道館で、原爆犠牲者追悼式は原爆ドームで毎年、無宗教の形式で厳かに行われて誰も異議を申し立てない。
 狭量な一神教徒の国が国のために殉じた人を慰霊・追悼するために、教会で、モスクであるいはシナゴーグでしているでしょうか。キリスト教原理主義者を大統領としているアメリカでも、指導者が信仰する一つの信仰形式で国に殉じた人の信仰を無視する形で追悼をしていない(森孝一:宗教から読む「アメリカ」)。アメリカ人の中には仏教徒もいますしムスリムもいて、そういう人たちにキリスト教式で哀悼のまことを捧げることは個人の尊厳や信仰の自由を侵害するとの配慮から、特別な宗教施設でないところに彼らの墓地を設けたのでしょう。宗教国家といわれるアメリカでもそのような注意深さが払われています。多様な価値観を持つ人々に対する敬意です。信仰に無関心な私たちなのに、国のために命を落とした人になるとなぜか靖国神社で慰霊することしか思い浮かばない。神道のことについて何も知らない人までが。アメリカに留学していた若いころワシントンDCのアーリントン墓地に出かけましたが、どこにも風格のある辺りを威圧するような特定の宗教施設はなかった。当たり前ですがイスラーム教を初め、あらゆる宗教における葬送儀礼で亡き人を埋葬できるようになっている。追悼施設を神社に限るという狭量さは神々に寛容な国民に似つかわしくない振る舞いでしょう。政教分離、しかも正しい意味での国家が一定の宗教を特別扱いしてはならないという近代国家が守るべき一定のルールに抵触する可能があるように思います。
 日本人の中にも少数ながらキリスト教徒がいるでしょうし、いや仏教徒が大部分でしょう。いや神道家ばかりか。いや無神論者も多い。それにも関わらず、お国のために死んだ軍人は、仏教方式でもなければキリスト教方式でもない、神道方式だけで弔う。個人の尊厳を大切にする近代国家とはいえないとの批判を国際的に浴びることを覚悟しなければならない。
 多分、そのあたりの事情を弁えている人が靖国神社の参拝にこだわるから、心の問題が、隣国には変な政治的メセージを与えて、国旗を焼くような品のない振る舞いをさせてしまうのでしょう。心の問題に他国が干渉するべきではないといいながら個人の心を無視したことをする。価値観を共有していない国から何か本心を隠しているのではないかとの疑心暗鬼が持たれる。馬鹿のことを勘ぐる国民がいるものだなと高みの見物をしていないで、そういう人たちがいるということを前提にして大国は大国らしく振舞いたい。信仰は神聖で犯すべからざる大切な心の問題である。それが自覚できないために、実りのない誤解を国際的に生み出していることに気がつかないと、毎年、国民に鬱陶しい8月を迎えさせることになるでしょう。
 靖国は外交カードにならないと強弁していても、隣国が日本は戦前の軍国主義的国家に戻ろうとしているといい続ければ、私たちのような温和な国民が好戦的な国民であるとの世論が世界中で形成される可能性は否定できません。心配です。鮪のトロが高値だというのは中国が日本より高値で買うからという時代です。石油資源の買い付けも中国と駆け引きをしなければならない。産油国に「日本は軍国主義で神道家である・・・」と耳打ちされたら一体どうなることやら。ムスリムは異教徒は殺さねばならないと学んでいます。
 私たちが本当に軍国主義を信奉して、神道だけを拠りどころに生きていればそのような非難を甘んじて受ければいいのですが。
 ドイツがナチ時代の戦争犯罪を清算して、かって戦った国との関係改善のために払った犠牲以上の貢献を隣国にしていると信じていますが、そのような努力が、心の貧しさからくる子供じみた振る舞いで、台無しにするのはいかにも勿体無い。これ以上こじらせたくないですね。どうも新しい指導者は「馬鹿な国の誤解などほっとけばいい。彼らを導かなければならない」という勇ましいというか、日本人ユダヤ教徒が病んでいると診断したマッチョな人たちをブレーンとしているらしい。彼らは不思議なくらい自信満々の顔をしています。
 信仰世界の営みは私たちが考える以上に生きる規範としても、人々を統合する力としても、そして何より人間固有の文化の創造に欠くべからざるものであることに思いを馳せる必要があると思います。犬猫は信仰世界とは無縁で生きています。信仰に無関心であることが人に近いあるいは犬猫に近い頭の構造から来るのかよく考えなければならない。そういわれてもオウムになっても困るしという思いが湧いてきますね。私たちは古来からがんじがらめの戒律は嫌いだし、実際自分のことを振り返ればおよそ信仰とは対極の世界で生きていますからね。
 本当に私たちは信仰に対して冷淡だったかというと国宝一つとっても、指定されている建造物や美術品は仏教そして神道に関連するものが多くを占めています。なにせ国宝第一号は広隆寺に鎮座している「弥勒菩薩半跏思惟像」ですからね。この菩薩像を見た精神病理学者で哲学者であるヤスパースがこの微笑みは「モナ・リザ」の微笑み以上に神秘的で美しいと感嘆したとの逸話が残っています。京都に住んでいるお陰で、国宝がある神社仏閣に気楽に出掛けられますが、いずれも信仰生活に無関心な魂が作り出したとは思えないある種の神聖さが宿っているのに打たれます。弥勒菩薩の作者も日本人とも朝鮮人とも言われて名も判らぬ仏師ですが、深い祈りの中で彫刻したことは誰でも判ります。国宝と名の付くものは見ておくといいでしょう。心が豊かになるでしょう。
 私たちが現在のように信仰生活に対して無関心になったのにはどのような経緯があるかは全く知りません。日本人本来の魂の営みとはかけ離れた状況であるといっていいと思います。信仰深いと思われそうですが、自分は信仰世界とは遠い人間であることを知っています。ただ信仰生活を心から覗いてみたいと思っています。
 いやいや旧約聖書を読む理由を説明しているうちにとんだ回り道をしてしまいました。読むのも疲れるでしょう。

靖国神社とは?
 靖国神社の参拝について触れたので靖国神社と日本人のアイデンティーの関係についても少し考えておきたいと思います。どうやら靖国神社は、日本人の心の拠り所であり、日本人の魂の宿る所であり、日本人の日本人たる所以を学ぶところであるかのような論調も最近は見られますからね。日本人は悪人でも死んだら仏(神?)として崇敬する。A級戦犯に哀悼のまことを捧げるのはいかがなものかという抗議に対して総理大臣が答えた迷言の一つですね。それ以来中国人はお墓に入った後でも悪人に対しては唾をかけて、許すことなく罵倒し続けるなどということも学びました。本当なのでしょうか。中国と日本は儒教漢字文化圏に属すると考えている人もいますので、死人に対する態度がそれほど違うとは思えませんが・・・。儒教漢字文化圏に属する朝鮮はハングル語を、ベトナムはベトナム語を発明して、中国文化の影響を極力避けて固有の文化を育もうと努力しました。日本は相変わらず漢字を主要文字として使っています。よく知りませんが平仮名は漢字の一部を変形させて作った文字てすね。韓国やベトナムを訪問すると、見慣れぬ言語ばかりでどこにいるのか判らないで不安を覚えますが、北京や上海では漢字表記の看板を正確には読み取れませんがおおよそ書いてある意味に見当がついて安心して街を歩き回れます。私たちの世代は高校生の時に漢文を学ぶことが必須でしたが君たちはどうでしたか。漢文を読めないと日本の多くの古い仏典、歴史書などはほとんど理解できないために漢文に親しむことが強制されるのです。漢字をすべて和語にしなかったのは両国が長い間友好的な関係を持っていたためではないでしょうか。仲良くしていくしかないですね。続く。

by rr4546 | 2006-09-13 13:46 | 宗教 | Comments(5)