医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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カテゴリ:日本人論( 64 )

「よき高齢者医療」がわが国で出来上ることを願ってワーワーガーガー書いているが、厚生官僚、医療関係者そしてマスメディアから何一つ反応がない。ここまで言われたら、アホな誤った情報を垂れ流すなくらいのクレームがあってもいいと思うが・・・・。言論の自由な国に住んでいるのであろう。言及するのも憚られると思っておられるのであろう。いや現在の医療で国民が満足しているのであろう。
大往生、がん治療に関する知識も大切だが、歳を取れば何かとお世話にならなければならない高齢者医療について知っておくほうが私にははるかに重要だと思う。
よく考えてみれば今BLOGに載せているのは、9月にG県で行った講演を、向こうで掘り起こしてくださった原稿に少し手を加えたものである。いずれ印刷物として私のところにも届く。認知症、糖尿病、高血圧、容態急変時の対応等はそちらをご覧いただきたい。
12月も押し迫ってきた。クリスマス、大晦日あり。そして1月は一年の計画を立てなければならない。私の家族も10人になってしまった。お節介なことをやっている暇はない。
先日「アンナ・アーレント」という映画を見た。監督、脚本そして主演すべてが女性。ドイツ・フランスの映画会社が共同で製作した作品を堪能した。
ヒトラー統治時代、ユダヤ人殲滅計画の事務処理を担っていた有能な官僚、アイヒマンが1963年亡命先のアルゼンチンで捕えられ、裁判にかけられ死刑執行された事件を背景として、思想家アンナ・アーレントが「人の犯す悪」について考察する姿を描いた作品である。お固い映画であるがアーレントを演じるバルバラ・スコヴァが女性哲学者を魅力的に演じて、作品としても一級。本物かと見まがうハイデッガーも出てくる。見終わった後もいろいろ考えさせられた。
法廷で能吏アイヒマンが「わたしがどういう罪を犯したのか。なにができたのか」と主張する場面はイスラエル放送が実写したフィルムを使っている。迫力満点。彼の言い分も理解できないわけではないが、ずる賢そうな雰囲気があり、損をしている。
しかし、平和な時代に敢えてこういう映画を作った、女性スタッフに敬意を払いたい。ドイツ人もユダヤ人も厳しく描いている。わが国では自虐史観にのよる戦争回想録として批判を浴びたことであろう。
京都では戦前植民地や侵略した国に対してのヘイトスピーチが盛ん。街中で若者が耳を傾けるのも嫌な主張をがなっている。若者特有の視野の狭さからくる独善的なスピーチと思っていたが、大手出版の数種類の週刊誌の見出しはヘイトスピーチ以上の激しさで隣国を貶めている。
隣国は犯した行為に対して真摯に向き合っていないと抗議している。国の指導者は紛争当事国以外は軍縮が流れのような気がするが、軍備増強にかじを切った。福島の後始末をするために国力を使うほうが、わが国の名誉ある振舞いのような気がする。隣国が今にも攻めてきそうな妄想に取りつかれていないか。
「アンナ・アーレント」は戦争当事国の共同で作られたということから、われわれはなにか学ぶべきであろう。
私のような老人はあちらもこちらも訳の分からないことばかりで右往左往している。
「ディオバン」の捏造データ事件もうやむやに終わるかと思っていたら、昨日の報道では、厚労省が当の製薬会社を刑事告発するとあった。医療に悪はないと思いがちであるが、医療にもいろいろな悪があることを法廷の場で明らかにしてもらいたい。
次回は「民主主義の欠陥」(一神教的思考様式を学ぶ―創世記―から)という項目でアンナ・アーレントを紹介しているのでその一部を載せる。省エネである。

by rr4546 | 2013-12-19 15:08 | 日本人論 | Comments(0)

若者の力

Blog、TwitterあるいはFace BookとSNSは進化している。老人はボケ防止のために何でも手を出すが、これらのSNSはそれぞれ果たしている役割が違うらしい。大演説をぶつ場であったり、個人的な情報交換の場であったりと、若者はうまく使いこなしている。老人はそういうルールもわきまえず、好き放題に使っている。他人の家に土足で上がりこんで迷惑をかけていることだろう。そのうちそれぞれの特徴を理解して目障りにならないようにしたい。 今回の原稿は1週間前にFace Bookに載せた。しかしBlogに載せるほうが納まりがいい感じがすると思い転載する。                                            11月15日に大阪のフェステイバルホールで行われたサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に出かけた。樫本大進君ー氏と呼ぶべきであろう。テレビで見る彼は、童顔で若々しくて敢えて「君」と呼ぶ。実際まだ34歳!-が天才たちが集まる、世評では世界一と認められているオーケストラのコンサートマスターとして演奏する姿を見る機会がやっと来た。樫本君は若くしてヴァイオリンソリストとして高く評価され、実際彼の演奏は瑞々しいうえに、何とも言えない甘美な響きがあり、聴けばすぐ彼の演奏だと言い当てることができる。天才なのであろう。十分ソリストとしてもたっていけると思っていたのに、敢えて制約の多い歴史ある大楽団に30歳で活躍の場を求め楽団員をまとめる大役を担った。演奏家としてだけではなく、人間的にも誠に興味い。                                                       今回の演奏会ではコンサートマスターとしてではなく、ソリストとしてプロコフィエフ作曲:ヴァイオリン協奏曲第一番を彼の持つ抒情性をいかんなく発揮して見事に弾ききった。フォークソングにせよ、交響曲にせよ、スタンダードと呼ばれる曲は、深層に隠れて自分でも言葉にできない喜び、悲しみ、愛、憎しみ、希望、絶望、祈りそして宇宙を描いて、人の心の襞に入り込んで生き続けるのであろう。頭の片隅に隠れていたメロデイーが思いがけない形でよみがえり、慰めたり、励ましたりしてくれる。音楽の持つ力については、また語る時があるであろう。                                                               今回は樫本君について報告する場である。指揮者も弦楽器、管楽器、打楽器奏者全てが、彼の演奏に引き込まれるようにそれぞれのパートを担当して曲は進んだ。ベルリンフィルの音だからこの世の響きを超えている。演奏をしていない団員は大進君の演奏に尊敬の眼差しを注いでいた。                     樫本君といえば小太りで小柄だと想像していたが、ラトルと舞台に登場してきたとき、若々しくてスマートでオーラがあるのに驚いた。演奏後たびたび舞台に呼び出されたが、立ち居振る舞いは垢抜けしていて、さすがベルリンフィルのコンサートマスターだと納得した。小太りで小柄だと思い込んでいた自分の愚かさを思い知らされた。  若者が野球、サッカー、ゴルフ、テニスなど多分野でやすやすと日本を飛び越えてインターナショナルで活躍している、こんなうれしいことはない。大人がガラパゴス進化に熱中して、僻んでいるのか、馬鹿にしているのか知らないけれど、隣国ともまともに付き合わない。身内だけで通用する世界で威張っている。どうしたことか。権威たちは原子力村や認知症村を作って身内だけで通用する話にうつつを抜かして、大惨事を招いたり、医療現場を荒廃させたりしているが一向に反省する様子はない。                     日本だけで通用する権威たちも世界で活躍する若者にできるだけ接して、大きな仕事に取り組んでもらいたい。勿論、これは自分への自戒も込められている。樫本君の演奏を聴いて本当に良かった。彼のますますの活躍を祈った。いや益々大きくなっていくであろう。
by rr4546 | 2013-11-21 13:15 | 日本人論 | Comments(0)
最近読んだ本の中の4冊、「科学と宗教と死」、「マーラーの交響曲」、「中国化する日本」そして「私は誰になっていくの?アルツハイマー病者から見た世界」を紹介しておきたい。書評を書くほど深く読めないが、手に取る際の参考になればと思って、心に残ったところやどうもこうも理解できないところを引き写しておきたい。
「科学と宗教と死」(加賀乙彦)
加賀氏は時事時評のおつもりであろう、手軽に読む新書版の本を時々出される。「小説家が読むドストエフスキー」、「悪魔のささやき」、「不幸な国の幸福論」いずれも、淡々とした口調であるが、心温まる生き方や憂国の思いを述べられている。常識的で目新しい主張がないとの批判もあるが、わたしはいつも多くのことを学んでいる。
『あちこちに「頑張ろう日本」と張り出されている。それだけであれば原発を作り電気を生産し、産業を興し、作ったものを全世界に売って、またお金持ちになろうということではないでしょうか。相変わらず傲慢不遜に自分たちの力に頼んでいるのではないか、心配です。自分たちに力はわずかなもので、その無力を自覚しつつ補ってもらう。人間が己の力で頑張るだけでは足りない、もっと大きな力を祈りによって引き出してもらう、そういう謙虚な気持ちが必要だと思います。国民のほうも政府に金を出せという気持ちではいけないと思います。我々も祈らなくてはならない。自分の体で奉仕しなくてはならない。』
同年輩の石原慎太郎閣下が、隣国を貶めるようなマッチョな祝辞を都立大学の若い卒業生に送ったとの報に接して、一層加賀氏の活躍を祈った。80歳近い人気の高い政治家が、大阪場所で優勝した白鵬や大関に昇進することの決まった鶴竜より、品位に欠ける発言をするのは残念だ。
「マーラーの交響曲」(金聖響+玉木正之)
最近は、バッハとマーラーの曲ばかりを聞いている。周りにマーラー好きはいない。難しい難しいばかりと愚痴られる。お陰で自分がマーラーに惹かれる理由を語りあう機会がなく、なぜマーラーが好きなのか自分でも判らなかった。ミーハーがAKB48が好きなように、自分はマーラーのミーハーだと思っていた。しかし若い指揮者金聖響氏とスポーツライター玉木正之氏が書き上げた「マーラーの交響曲」は、本の帯に入門書の決定版とうたってあるが、わたしにはマーラーの全体を理解する最良の教科書のように思える。お二人のマーラーへの思いは世界広しといえども、そんなにないように思える。驚くほど多くのことを学ばせて頂いた。
『「ベートーヴェンが、「第九交響曲」で、「全世界の兄弟たちよ、抱き合え!」というメッセージまで、発信したあと、ロマン派の作曲家たちも素晴らしい交響曲を創り出しましたが、ベートーヴェンの大名曲の「大きさ」を凌駕するに至らなかった。それをやってのけたのが、「マーラーの交響曲」といえますね。」
『「交響曲」といえば、ベートーヴェン以来、人生との闘いにおける勝利や、自然の偉大さや、宇宙の広大さや、自然や宇宙を作った造物主の存在への畏敬の念・・・・といった、形而上学的なテーマと哲学的な思考を伴うものと考えられ、そのことをマーラー自身が交響曲「復活」で示してみせたのです。』
『マーラーは、交響曲作家として歩みだすのと同時に、自然・神・天国・生と死・・・・など、色々なテーマを考えながら、音楽を創りつづけてきました。』
『マーラーの「交響曲八番」も、ベートーヴェンの「第九」と同様、キリスト教の影響下の社会で育った作曲家が、キリスト教ときわめて関係の深いテキストを用いて創った音楽ですが、キリスト教を大きく凌駕した、汎神論的祝祭の音楽といえます。』
『「大地の歌」でマーラーが新たに描き出した「世界」は、単なる「異国趣味」でもなければ、大航海時代以来ヨーロッパで流行しつづけた「中国趣味」でもなく、東洋的「厭世感」や「耽美主義」が見事に西洋音楽と合体した、素晴らしい「音楽世界」を創り上げています。この音楽が、マーラー自身も傾倒したことがあるショーペンハウエルの悲観主義哲学や、ニーチェの厭世主義や虚無主義にも通じるところがあるからでしょう。』
『いま大きな時代の変わり目に遭遇している地球上の全世界にとって・・・・、なかでも、震災、原発事故、政治経済的混乱など、激動のなかにある日本と日本人にとって、時代の変わり目に、音楽できちんと一時代に決着を付けたマーラーの音楽こそ、傾聴に値する音楽のように思えます。現代人よ、マーラーを聴け!日本人よ、今こそマーラーを聴け!そこから何かを聞き取れ!。』
マーラーの曲を一層好きになった。お二人のマーラーを愛するお気持ちと博覧強記に敬服。
勿論、本の中に楽譜も紹介されて、マーラーの音楽の斬新さや、現代音楽の先駆けになった理由が述べてあるが、わたしには十分理解できない。残念。
次に「中国化する日本」と「私は誰になっていくの? アルツハイマー病者から見た世界」を紹介する。

by rr4546 | 2012-03-27 09:51 | 日本人論 | Comments(0)
 わたしにこのたとえ話の信仰的意義について論ずる資格はない。ただわたしたちのような常識が豊かで、その常識に従って、この世を生きていっても何も問題を起こさない人間と違って、常識を規範とするととんでもないことをしてしまう、わたしのような者にとっては、わたしたちが誇っていい常識以外の生きる規範がどうしても必要になる。そこで論語、武士道そして仏典といっても、歎異抄や般若心経の注解本を頼りにするが、一向にまともな生活が送れない。今頼りにしているのは聖書である。聖書を学びながら生きていきたいと思うだけで、横着者のわたしでも、人並みの毎日が送れるように感じる。他人から見ればとても聖書的に生きているようには見えないが・・・・。
 大澤氏が不可解だと取り上げた「不正な管理人」の物語は、イエスはエゴイズム、いや我欲を、この世で生きていく際に、人間の罪・悪と考えていなと言っているのだと素直に解釈すればいいのではないだろうか。ただ人の道を説いた古来からの倫理書や、論語、武士道そして仏典に「不正を勧める」教えが書いてあるとはとても思えない。大澤氏が不可解だと、首をかしげられのがまっとうな反応であろう。
 人の道を説きながら、なぜ聖書は不正を罪として糾弾しないのか。裁くどころか、聖書には邪な人物はいくらでも登場してくる(一神教的思考様式を学ぶー創世記 第3章 ヤコブ物語 邪な神の民p229-238)。信仰の民として讃えられるヤコブが、父・兄や舅を欺き、跡取りの権利を手に入れて財産を増やしてのし上がっていくことを、なにも咎めることなく描き、イスラエル12部族の祖と描いた。こういう物語を読んで、多くの人はなぜこの世に悪があるのか、神は全能ではないかと詰問するであろう。
 それに対する答えも聖書に書かれている。人間が悪を行い、堕落しているのをみて、神は悪を滅ぼすために洪水を起こされた。ノアの物語として有名な神話である(創世記6章―10章)。悪いことばかりを思い計る人たちを滅ぼすために、神は大洪水をおこされた。ただ義人であるノア一族だけは、洪水から逃れるために箱舟が用意され、洪水後も生き残った。堕落と無法は滅ぼされて、この世に正義が満ち溢れたはずであった。ただ裁きの後も、神が期待したようにこの世に悪はなくらなかった。ここが重要なポイントであるが、神は失敗したと言わないで、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」(創世記 8章二十一節)。もう一度悪を裁くと言わないで、あっさりと悪を排除することを諦めてしまう。わたしたちが今でも邪で、懲りずに悪い思いの中で右往左往している理由が見事に書いてあるのである。聖書は「人間はもともと悪いのだ」と、人間が聖人君子でないことを淡々と記載する。
 我欲を悪だと決めつけて、我欲から逃れる道を語る、いささか空想的な規範の本がわたしたちに必要なのか、我欲から逃れられない自分の本質を自覚して、生きていく仕方を説く規範本が必要なのか、大いに議論するべきであろう。
続く

by rr4546 | 2011-07-05 16:03 | 日本人論 | Comments(0)
 大澤真幸氏は、深い教養と広い視野を持つ、現代日本でもっとも優れた知識人(「ナショナリズムの由来」、「量子の社会哲学」、「社会は絶えず夢を見ている」をみよ)であると私は思う。私たちの最良の師匠の一人として評価される時が来るのではないだろうか。最近、大澤真幸氏は、橋爪大三郎氏との対論を「ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎x大澤真幸」という本にまとめられた。大澤氏がキリスト教理解を深めることによって、新しいパラダイムを持つ日本人が誕生することを心から願っておられるのを知って驚きを禁じ得なかった。かのリチャード・ドーキンスは、「神は妄想であるー宗教との決別」で、無神論の正しさを論じたが、彼の主張は宗教を否定するためには不十分である。一方、大澤氏は、「量子の社会哲学」で、量子物理学のロジックを使って、ニュートン力学や相対性理論では否定できなかった神の存在を完全に否定できることを明らかにした。そのことを知っていたので、驚きは一層新鮮であった。この対論集は、私のキリスト教理解とは色々な点で異なっているが、お二人が、私たちがキリスト教とよりよい関係をつくるために、真面目に取り組んでおられるのは疑いの余地がない。
 その中で大澤氏は、イエスの不可解なたとえ話の一つとして「不正な管理人のためのたとえ」をあげ、イエスは私たちの常識からすると、何故、不正を勧めるような説教をしたのかと橋爪氏に問うている。我欲を考える上で色々示唆に富むので紹介しておきたい。

イエスは、弟子たちに次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土地を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事を辞めさせられても、自分を家にむかえてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのあるもの一人一人を読んで、まず最初の人に、『私の主人にいくらの借りがあるのか』と言った。『油百パトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰をかけて、五十パトスと書き直しなさい。』 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。」 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。(ルカによる福音書16章1-9節)。

 大澤氏はこのたとえ話を取り上げて、不正を働く管理人の振舞いのどこが立派なのか。どこが神の国にふさわしいのかと疑問を投げかけられた。誰しもこのたとえ話を読んで、同じ感想を持つであろう。
続く

by rr4546 | 2011-07-02 18:05 | 日本人論 | Comments(0)
 石原慎太郎東京都知事の「核武装をするべきである」との主張をきっかけとして、わが国の核武装政策について論じるためにこのシリーズを始めた。その後、広島・長崎の原子爆弾より放射性物質の飛散が多いと予測されている福島原発事故がおこった。その責任の所在を論じて回り道をしてしまった。原子炉損傷を防ぐための海水注入やベントについて基本的な知識不足に基づく主張を展開し、恥ずかしいが、指摘しておきたい基本的な事項は変わらないので、間違った記載は訂正しないで載せておく。総理大臣の再臨界は起こらないかという、ピント外れの発言で現場が混乱したことに比べれば、小生の知識不足が招いた誤った主張は許容範囲内だと思うのだが。かくの如く、現代科学の粋を集めた原子力発電のメカニズムや危険の全体を理解するのは、素人にとって手の余ることなのであろう。一般の方が、遺伝子操作による治療や、iPS細胞の医療における将来性の説明を聞いても、多くの誤解をするのと事情は同じであろう。それにしても、原発事故の可能性とその恐ろしさについて全く無頓着であったのは、ただ恥いるしかない。自分に限って、自動車事故を起こさないと信じ込んで、無謀な運転で事故を招く心理的錯覚と、何か共通する、我欲に目くらましされた根拠のない楽観主義は、この躓き石の多い日々を生きていくための安全装置なのか、結局は大惨事を招き寄せる落とし穴なのか、もう一度自分にゆっくりと問うてみたい。
 回り道をしていてはきりがない。核武装をするべきかどうかの本題に入らなければならない。いや核心を論ずる前に、石原慎太郎氏の「東日本大震災は天罰が招いた」との発言について、急ぐからといってはし折るわけにはいかないように思う。
 氏は、震災後「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落す必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べた。発言の中には「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。我欲だよ。物欲、金銭欲」、「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。それを津波で一気に押し流す必要がある。積年たまった日本人の心の垢を」と例の早口でまくしたてた。
 ほとんど天について思いめぐらすことのない、私たちの多くも、罰があたったかもしれないと、何か真実を言い当てられたかの如く、石原慎太郎氏の批判にこうべを垂れている。私の敬愛する仏教学者である末木文美士先生も、日蓮は、「立正安国論」で「世の不正義が善神を追いやり、悪神を招いて災いが起こるという」と一貫と主張していることを紹介した。先生の主張は石原慎太郎氏がこともなげに「我欲が天罰を招く」と断ずる態度とは違って、色々深い思想と洞察の上でのご主張なのだけれど。
 石原慎太郎氏が我欲をどのような意味で使ったのか知る由もない。ただ、我欲が天罰を招くという御託宣は、誰しも身に覚えのあることなので、表だって反論できない。石原氏自身は、日本人を毒している我欲から解放されて、我欲とは無縁な生活を送っておられるのであろう。ただ本当に我欲に引き回されないで、言葉を言いかえれば自己犠牲的で、志の高い、高貴な人はこの世にいるのであろうか。私は、すべての人にとって多かれ少なかれ我欲は生きていく根源的な力の源になっているように思う。我欲に天罰か下されるというのが天の掟であれば、すべての人々に天罰が下ることになると思う。石原氏だけはノアのように逃れられるか。
 石原氏の我欲が何を意味するか詳らかではないが、我欲は天罰を招くという単純な論法で、今回の震災の原因を言い当てることはできないように思う。我欲は悪であるという主張には、我欲を抑制すれば、正しい生き方が出来るという、単純な思想が垣間見えて、またぞろ、不毛な、強欲な欧米人の悪口と、日本人は古来から、我欲や渇愛を窘める、自然と共生する、平穏を愛する国民性をもっているという、根拠のないナショナリスチックで、現実を何も解決しない、自己賛美の言説が幅を利かせ、何も生み出さない事態を招くであろう。それに悪乗りして、世を見るに敏な識者たちは我欲を乗り越える処方箋を色々提案することであろう。こういう茶番を繰り返していると、今回の震災から学ぶべきことは、私たちの視界からはるかに遠のき、ピント外れの議論で時間を費やすことになるであろう。原発はアメリカ製であったなどと、事故の原因を自分にではなく、他人のせいにする。我欲を乗り越えよという響きのいい似非知識人の忠告は何も生み出さないことだけは、心しておかなくてはならない。
 我欲は本当に天罰を招くのであろうか。我欲は、正義のもとで生きるにせよ、不正義のもとで生きるにせよ、人間の根源的な生きる原動力になっているように思う。核武装―我欲の最も醜い表象であろうーを最後に論ずる前に、我欲について私見を述べておきたい。我欲を正しく理解することによって、福島原発事故を乗り越える一つの知恵を見出せるように思えるから。

by rr4546 | 2011-06-14 14:38 | 日本人論 | Comments(0)
 石原慎太郎氏は、先日の都知事選挙で260万票ちかくを獲得して4期目の都知事に就任した。当選した際はテレもあったのであろう、「昔の名前で勝ちました・・・」と歌謡曲の一節を披露して勝利宣言をした。閣僚が背広姿になったが、そんな気持ちになれないと防災服でインタビューに答えていた。選挙前に「核武装は必要だ」とマッチョな発言をしていたが、原発事故に対してどのようなコメントをしたかマスコミからは伝わらなかった。
 わが国は本音はともあれ、建前は非核三原則を国是としている。岡田克也元外務大臣は、諸外国との首脳会談では必ず核兵器廃絶を訴え、核兵器を持たない国の指導者がなぜこれほどまでに、核兵器廃絶に拘るのかと訝られていると報道されていた。唯一の被爆国であるわが国のミッションの一つに、核兵器の怖さを語り続けることがあると私も信じているので、個人的には岡田氏の外交努力を評価していた。その上、バレンタイデーの贈り物も送り主に返しているとの彼の気まじめさと潔癖さに好意を抱いていた。愛読書はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」との発言も、岡田氏を将来の日本のリーダーの一人としてあげてもいいかと、個人的には思っていた。
 しかし都知事選挙の際の、民主党幹事長岡田氏の対応にはがっかりした。政権与党の大幹部が首都の指導者を選ぶ選挙を前にして、「石原慎太郎氏がたつかどうか、判らなかったので、対抗馬が決められなかった」と発言した。彼は愚直に世界のリーダーたちに核兵器の廃絶を訴えていた。彼も、石原慎太郎氏が「日本は核武装をするべきだ」と発言していたのを知っていたであろう。もし岡田氏の政治家としての信念の一つが、核兵器の廃絶を実現することであるとすれば、わが国の首都の首長が、自分の政治的信念に反する発言を繰り返せば、政治家としては命がけで石原氏の対抗馬を探すべきであったと思う。敵前逃亡したのである。信条を相いれない首都の長の誕生に、闘う前から白旗を上げていては政権与党の幹部としては失格である。民主党の若い代議士は、次回の選挙は絶対に落選すると、自らの首をなでていることであろう。この顛末を聞いてから、彼に対する評価は全く変わってしまった。
 もし適当な候補がなければ、政治生命を賭して、自らたって、石原氏の再選を阻む行動に出るべきであった。よしんば落選し、しばらく冷や飯を食ったとしても、再起するに十分な若さである。核武装をするべきだと発言する人物に対抗してこそ、核兵器を廃絶するべきであるとの彼の信念が本物であったと世間から認知されたであろう。核廃絶の思いを、世界中に伝えることができたであろう。残念でならない。石原氏は核武装をするべきだとこれからも繰り返すであろう。高齢者の頑固さは箸にも棒にもかからない。高齢者と日常的に接触している私の実感である。その発言に対して、今後どれだけ厳しい態度で臨んでも、岡田氏の信念は国民に伝わらないであろう。いやむしろ岡田氏はきれいごとを言っているけれど、本音は核武装論者だと陰口を叩かれることを甘受しなければならないであろう。世界の首脳たちは愚かではない。都知事の発言に対してあなたはどのように対応したのかと問われたら、沈黙するしかないであろう。その光景を思い浮かべると滑稽ですらある。
 東国原氏は何を掲げて都知事候補に名乗りを上げたか知る由もない、勝つとの世論調査の結果はなかったが、立候補した。首都をどのようにリードしたいかという政治信念があったのであろう。政権与党を預かる幹部の取る態度と極めて対照的であった。政治家は、勝ち負けで出処進退を決めるのではない。自分の政治的信念に基づいて、行動するべきである。これが優等生の官僚的判断と、政治家の判断の根本的な違いである。
 岡田氏は、政治的信念が違う人との戦いを、闘う前に避けた。このメッセージは、日本は核兵器廃絶、非核3原則などときれいごとを言っているけれど本音は、核の力を頼りにしているとのメッセージを世界に与えたかもしれない。中国で原子力発電所が次々と建てられ、安価な電力の供給が行われるようになれば、核についてきれいごとを言っていたことなど忘れた顔をして、原子力発電にいそしむに違いないと思われたに違いない。
 岡田氏を非難するためにこれを書いているのではない。唯一の被爆国で、核の恐ろしさを語る義務を持っている私たちは、本気で核の恐ろしさを自覚しているのか、自分を含めて自問するべきであると言っているのである。原発事故に関して終始、東電の応援をしていたが、原発事故後の、核燃料の冷却といい、炉心溶融に対する対応といい、いずれもアメリカ頼りの対応に終始している。東電が神に挑戦する危険な核エネルギーを扱っているとの自覚を持っていたか疑わせる事態ばかりを見せつけられてがっかりしている。事故が起こった時の、訓練がほとんどなされていなかったようにも見える。原子炉置屋の状況のモニターもアメリカ製のロボットを使用、汚染水の処理はフランスの技術を使用、使用済核燃料の冷却の放水器は、中国製の大型クレーンを使っているらしい。事故の際の対応マニュアルや、事故訓練そしてひとたび事故が起こった時の重機の準備もいい加減な印象。とても核を世界で最も恐れていた国での原発事故とは思われない体たらくぶりである。東電にも国と同等の責任があったと断ずるほかない。東電の若者にはエールを送り続けるが、幹部には今後決して送らない。若者はこの事態を必ず納めてくれるから。
 一体核アレルギーが強いと言われていた私たちは、本当に核アレルギーを持っているのだろうか。格好いいから核兵器廃絶を訴えていただけなのだろうか。アレルギーが本当に強ければどの国民よりも、いつも謙虚に核と付き合っているはずであろう。今回の原発事故や都知事選挙の成り行きをみていると、実際はそうではなかったと言うしかない。
 日ごろ言っていることと、実際ことが起こってからの対応をみていると、その落差に驚くばかりであった。どうしてこういう事態になってしまったかについて私たち一人一人が考えることによって、本当に品格のある国になれるように思う。世界から信頼される国になれると思う。
 震災時に略奪も便乗値上げもなかった。規律正しく復興に当たっているとの諸外国のマスコミのお世辞で満足している場合ではない。未曽有の天災を前に際して、日本国民のよさを伝えたのは、日本人をほめたたえるためではない。マスコミがこの機会に、国民がこうあってほしいとの思いを、自国民に伝えることをマスコミの大切な義務の一つと自覚して報道しただけであろう。日本人を褒めても、何一つ得るものがない外国のメディアの真意を正確に判断するべきである。喜んでいる場合ではない。マスコミは隣国や同盟国の悪口を言って、読者に媚びるのが仕事ではない。自分たちの国がどうあってほしいかのメッセージを伝えるのも、大切な義務の一つなのであろう。どんな他国からも学ぶことはある。
 そういう裏事情を知らないのであろうか。外国のマスコミの報道に便乗して、今の政府は復興に素晴らしく貢献している、文句を言う奴に、ではあなたならどうすると質問すると何も答えられないと、批判的な言辞をはくのが務めであるはずの文化人が、ブログで現在の状況に何故無責任にクレームをつけるのだと堂々と論陣を張っている。批判こそが、新しい解決を作り出していくのに。深く反省するべきこの時期に、「日本人の誇り」など耳触りのいい題の本を出版する、機をみるに敏な文化人が続々と登場している。私たちは益々、知性を磨かねばならないと思う。この大震災を乗り越えるためにも。
続く

by rr4546 | 2011-05-20 13:55 | 日本人論 | Comments(0)
 浜岡原発の全面的な運転停止が5月の連休前に、管直人首相の政治決断で決着した。核兵器と違って、原子力発電のような核エネルギーの平和利用は許されるとの主張は、原発もひとたび事故を起こせば、核兵器以上に広範囲に甚大な被害を惹き起すことがはっきりした現在やむおう得ないであろう。おおむね国民の理解が得られているようである。マスコミや平和愛好文化人には大歓迎されている。
 それにしても原子力発電の安全神話は余りにもあっけなく崩れ去った。根拠のないプロパガンダを信頼していた自分の不明を恥じるしかない。原子力を平和利用できるほど、人類は科学的知識を持っていないとの当り前の事実に謙虚になるしかない。現在の状況は、丁度神と人とを仲立ちするギリシャの神、プロメテウスが盗んだ天上の火を人間に与えてゼウスの怒りをかい、山の岩に鎖でつながれ、大鷲に肝臓を食われ苦しんでいる状況と似ているのかもしれない。将来神が勝つのか、人類が勝つのか私には判らない。ただ人間である私は、人間に勝ってもらいたいと願っている。これを今声高にいえば、科学万能主義の阿呆、持続可能な文化の中で生きていた縄文時代のよさがなぜわからないと、バッシングされるであろう。ただ科学者としては、真理のほんの一部しか知らない、人生の知恵についてもこれだけアホでは、死んでも死にきれないとの思いで、やっと生きている私は、まだ人類に前を向いて歩いていってもらいたいと願っているだけである。一昔前の知恵で生きよと言われたら、十分に賢明で悟った人と違って、無知は心の病であることを知っているので、もう少し人間に頑張ってもらいたいと心から望んでしまう。原発事故を終息するために、人類が経験しなかった仕事に従事している人の健闘と健康を心から祈っている。その成果を人類共通の財産にしてもらいたい。神に勝つかどうかではなくて。
 いずれにせよ、愚かさのただ中にいる私たちは、将来予測される東海地震の震源地の上にたつ原発の稼働停止の要請をリヴァイアサンが決断したことを素直に喜んだ。
 ただ私には何か釈然としない思いが残る。日本では核利用はどのような法的な根拠のもとで行われているのであろうか。福島原発の事故処理は、報道によると原子力安全委員会のお墨付きのもとで進められているらしい。法的には原子力発電の許可・停止の全権は原子力安全委員会が持っていることになる。リヴァイアサンではない。
 リヴァイアサンの稼働停止の要請が、原子力委員会のメンバーの同席のもとで行われていれば、私は釈然とした気持ちを持たなかったと思う。停止要請に至ったプロセスはブロックスボックスのままである。金正日氏が後継者を三男坊に決めたのとどこも違わない。
 停止要請に関わった原子力安全委員会の人物が思い浮かばないので、原発事故に日夜汗を流している数人の政治家が決定を下したのであろう。この決定の手順が私の理解する法治主義と相いれないので釈然としないのである。聞くところうによると、原発事故処理に当たっている政治家は、彼らの真剣さや誠実さを認めたとしても、原子力や原発行政について、専門的知識は皆無らしい。ユダヤ教に造詣の深いフランス文学者が、原発対策に当たっている政治家と対談した後に洩らした感想だからかなり信憑性は高いと思う。想像してもE氏、K氏そしてH氏が原子力の科学的知識や行政に詳しそうに見えない。作られた作文を読んでいる。発表前にレクチャーを受けた内容を照れないで読む度胸も、時には必要なのであろう。
 今回の中止の決断は素人集団の直感のもとで下された。核利用の専門家でもない政治家が、直感で停止を決定する。しかも嫌なことに、0-157がカイワレによる感染だー生の牛肉やレバーで感染する菌であるー、血液製剤のHIV感染に厚生官僚が関わっていたー彼が薬害の根絶を誓ったにも拘らず、現在でも厚生官僚と製薬会社の共犯とも言っていい薬害まがいの事故は後を絶たない。官僚、製薬業界そして世間のことに疎いアカデミズムは、一層陰湿な形で薬害を生む構図を温存している。大見えを切った割には本質的なことは解決されていない。一介の医師免許を持っていた課長を有罪にして、彼の家庭を崩壊させたーと謝罪したことなど、どうも彼のやってきた政治は、客観的な証拠に基づく問題把握の上での決断でなくて、悪意はないけれど、向こう受けのすることを直感で行う、stand playに限りなく近いものであった印象を私は持っている。偏見であろうか。今回の決断も彼の行ってきたパフォーマンスの上で冷静に受け止めなければならないと思う。
 私の考えでは、政治家はstand playを得意とするのではなく、預言者のような資質を持って事に当たらなければならない。直感も、stand playのニュアンスではなく、己を空しくして、国益に身をささげた上でのものではなくてはならない。丁度宗教的預言者が、自分により頼むのではなく、神の啓示を聞いて民を導いたように。念のために言っておくが、預言者は大抵素人受けすることを語るのではなく、多くの人の顰蹙を買うけれど、長い年月の批判に耐える、永遠に残る知恵を語る。Stand playなどと陰口される口当たりのいいことは決して言わない。
 私の釈然としない気持ちは、現在のリヴァイアサンの資質に対する漠然とした印象からきているのではない。私はリヴァイアサンの浜岡原発の停止要請が、日本の民主主義を破壊する可能性があるのではないかと恐れているのである。日本がひとたび非常時に突入すると、リヴァイヤサンは法的な手順を踏まずに、あの政治団体は土建屋とグルを組んで、日本の政治を歪めて禍根を残すとの直感で、土建屋集団を牢に繋ぐことをやりかねないと危惧するのである。繰り返すが金正日が、彼の独断で6者協議の開催も、後継者も一人で決めているように。
  何故マスコミや文化人は、リヴァイヤサンの浜岡原発の運転停止要請が民主主義の基本の一つである法治主義に反する可能性があるのではないかと指摘しないのであろうか。私たちの付和雷同的な振舞いは、テロリズムと民主主義の違いに対する無理解と、アナーキーな反知性的なmentalityに由来することは「一神教的思考様式-創世記」の中で問題提起した。
 今回の浜岡原発の停止要請も、わたしたちの独特のmentalityによって、無批判に受け入れられていることは将来に悪しき前例を残すのではないかと老人は老人なりに深く憂えている。大政翼賛会によって太平洋戦争に真剣に取り組んだ過ちを、繰り返してはならない。治安維持法で、正規な手続きを踏むことなく正義の人の命を奪ったことを忘れてはならない。
「一神教的思考様式を学ぶー創世記―」第2章アブラハム物語 間違ったリヴァイアサン理解 pp205-213
続く

by rr4546 | 2011-05-13 15:50 | 日本人論 | Comments(0)
 昨日、4か月前に東電に顧問として天下っていた元資源エネルギー庁長官が東電を辞任した。命を賭して事故終息に当たっている職員のためにも、こういう時こそあらゆる知恵と経験を活用して事故対策に奔走しなければならないと思う。泥船に乗っていてはたまらないとばかりに逃げ出した印象を多くの人は持った。彼は一体何のために東電に天下ったのであろうか。報道だけからは、甘い汁を吸うためだけに退職後に、東電を選んだような気がする。これでは被ばくを覚悟で、現場で働いている職員の意気を著しくそぐであろう。福島で働く人がいなくなる事態も招きかねない。現政権の無責任体質が垣間見えた気がして、恐ろしくなった。4か月前に天下った時は、天下りでないと民主党の幹部は断言した。そして今回辞意を伝えたことを政治主導で行った顔をしている。辞めないで事故後の対策に骨を折れと辞めさせないのが政治主導であろう。勘違いも甚だしい。原発事故の責任を考えておきたい。

 国の指導者(リヴァイヤサン)の役割はなんであろうか。ホッブスは、時代に先駆けて、国民国家形成理論を「リヴァイアサン」の中で書き上げた。その洞察は今でも新鮮で、リヴァイアサンは、1.外敵からの侵略に対する防御、2.国民の豊かな生活の確保の二つの役割を持っているだけであると述べた。平成の改革をやり遂げたいという訴えをして国民から主権を与えられているわけでもないのに、個人的な野心で主権をもてあそぶような振舞は、民主主義国家では許されない。我が国のような成熟した国で、権力をひとたび手に入れたら自分が信じることをやってよろしいなどの勝手放題が許されるわけがない。国の指導者は外国からの脅威に対する備えと、国民一人一人が安心して毎日を送るために働く全権が委ねられているに過ぎない。それ以外の課題は、国民に信を問うて選ばれた後だけにしか許されない。
 ホッブス理論にしたがえば、今回の原発事故のような広範囲でかつ長期間にわたって、国民の生活を脅かす放射性物質放出事故に対して、国の指導者は命を賭して対処しなければならないのはいうまでもない。東電を恫喝しているだけではことは解決しない。放射性物質が日本を覆っていては、私たちの安全な生活が確保できないからである。そういう可能性を抱えている原子力発電事業の安全・管理運営が、一営利企業に丸投げされるなどわが国ではありえないことであろう。
 実際、国は経済産業省の特別の機関として「原子力安全・保安院」を、そして内閣府には「原子力委員会」を設置して「我が国の原子力の研究・開発及び利用に当たっての完全を確保する」ことを監督・指導することと定めている。一営利企業が、採算重視で安全管理を怠たれば、国民の安全を守るためにも国は徹底的な指導・監査を行わなければならない。安全に対する配慮を怠れば、直ちに改善を求めなければならない。今までにも保安院や原子力委員会は多くの指導を行ったであろう。東電はその指摘に対して、誤魔化したり不正を働いたのであろうか。
 国の機関の指導に対等に渡り合える企業人はいない。国は許認可権を持っているのである。それを知っているわが国のリヴァイアサンは「潰れます」と恫喝できた。実際、現在、監査を受けている関西電力の原子力発電の関係者は、若い官僚に卑屈ともいえる態度で対応している姿をテレビでみることができる。官僚は子を諭すように指導している。
 東電が国の指導に従わないで今回の事故が起こったのであろうか。もしそうだとすれば事故の原因は第一義的に東電にある。不正や不法行為があったと聞かない。国が東電の計画に安全だとの担保を与えたのである。そして原子力発電を行っていた。しかし今回の不幸な事故が起こった。責任を持つのは国しかない。そのために官僚は働いていた。
 一方企業の役割は何かについても考えておきたい。今はやりのドラッガーは言っている。「企業は営利組織ではない。利益は、個々の事業にとっても、社会にとっても必要である。しかしそれは企業や企業活動にとって、目的ではなく条件である。企業は営利組織であるとの誤解は利潤動機なる動機によって人の行動を説明できるという誤った考えにある。企業の目的は、それぞれの企業の外にある。企業は社会の機関であり、その目的は社会にある。企業の目的の定義は一つしかない。それは顧客を創造することである」。難しい定義でため息が出るが、金を儲けたいと言って企業活動を始めて金儲けをした人はいない。ただ例外がある。金儲けを企んで、金儲けができるのは医薬品業界だけであろう。仮想健康・不老長寿を武器にした医薬品業界のはげたかぶりについては後日紹介する。健康を人質にして顧客を作り出している。
 企業は社会の人の欲求を満足させることによって成り立つ。そして企業はより良い製品、より多くの便利さ、より多くの満足を社会に与える。そして余禄として利潤を生み出す。このドラッガーの企業活動の定義は、企業活動は人を騙して金儲けしているという私たちの思い込みと相いれない。しかし、健全な企業をはげたかと定義するより、私たちの欲求を満足させる機関に過ぎないとのドラッガーのシンプルな定義は真実を言い当てていると思う。
 余談であるが、ホリエモンが自分で立ち上げたIT企業で100億、200億円の資産を手に入れ、彼の活動が虚業であるとの社会からバッシングを受けたとき「君だってお金が欲しいのでしょう。お金を持っていることがそんなに悪いことなの」と答えていた。ホリエモンが「若者の欲求するものに応えるために、俺の才覚でライブドアという企業を立ち上げただけよ。皆満足してお金を払ってくれた。100億、200億円持っていることなど自分には興味がない。羨ましければ、人が望むことに応える仕事を作ってごらん。出来なければ僻むなよ」と答えていたら、今頃、刑務所に送られる身ではなく、今でも若者のヒーローとして私たちの社会を明るくしていてくれていたと思う。報酬は他者から与えられるという当り前なことが私たちには自覚できないのであろう。残念。
 横道にそれたが、東電は少しでもコストの安い電力を供給し、日本の経済活動や快適な生活を支えたいとの企業理念だけで企業活動をして、社会から信用を得ていたのではないだろうか。どこにもよこしまな人はいるもので、余剰の利益を私物化していた人もいるであろう。いずれにせよ、東電の企業理念を考えるだけでも、今回の事故の主たる責任は東電にないというほかない。
 東電の若者よ。幹部たちが逃げ出しても、私たちのために原発事故に方をつけてくれたまえ。世界の人たちは君たちの行動を称賛している。自分を振り返ればなおのこと、君たちのような若者がいることを誇りに思うとエールを送る人は多い。これは人間の生きる道理に合っているからだ。道理通りに生きていけない私たちのために、頑張ってくれたまえ。いつの日か君たちの働きにつらなりたいと思う人は沢山出てくるであろう。頑張れ!東電の若者よ!

by rr4546 | 2011-04-19 15:57 | 日本人論 | Comments(0)
 事故発生から1カ月たった12日、福島第一原発1~4号機の事故は、国際評価尺度に従うと、チェルノブイル事故と同じ最も深刻なレベル7に相当すると原子力安全・保安院と原子力安全委員会が発表した。東電の幹部は、現在もなお放射性物質の放出は続いており、最終的な放射性物質の放出量はこれまでの最悪の事故とされるチェルノブイリ原発事故を上回るかもしれないとの懸念を示したと伝えられた。
 恐ろしいことではあるが、原発事故は東電側の推測通りに進む予感がする。
 今回は、核の恐ろしさを一番知っていると反核運動をリードしてきた我が国で、なぜ人類が経験しなかった未曾有の放射性物質の放出事故を起こしてしまったのだろうか、またこの事故をだれが終息させるかについて考えておきたい。方をつけなければならない。事故処理に放射線被ばくも覚悟の上で、露出した核燃料を冷やし、放射線物質を閉じ込めるために昼夜を問わず闘っている、東電、子会社そしてメーカーの人たちにエールを送りたいからである。
 事故の主たる原因は東電にあるのではなく国にある。東電の利益優先の体質が招いたとのマスコミの論調は間違っている。東電の責任を追及する一つの根拠に、冷却機能を失った核燃料を冷却するために、海水を撒けとのアイディアに躊躇したことがあげられる。海水を入れると、莫大な投資を要した原子炉が廃炉になるのを恐れたために初期対応で遅れを取ったと自称専門家からたびたび指摘された。東京都消防局のスタッフが家族や同僚を思いやりながら海水を夜を徹して原子炉に撒いた働きが、美談仕立てにして繰り返し放映された。消防局員は立派に任務を果たしたと思う。ビデオカメラに記録された奮闘ぶりに、最近涙もろくなった小生も涙した。しかし時がたつにつれ、海水の放水は、放射性物質の拡散を守る圧力容器や格納容器を破損させる可能性があるということで、アメリカの忠告に従って真水に変えられた。事故の深刻さを一番知っていた東電の職員が、廃炉を恐れて初期対応に当たったとは到底思われない。海水の腐食作用の恐ろしさを知っていただけだと思う。
 エコノミックアニマルなどと揶揄されながらも、後述するが日本人の多くは、お金より仕事をいかに美しく仕上げるかに生き甲斐を置いていると思う。そうでなければ、世界中の大手の最先端の工業製品を生み出しているGE、GM、アップル、ノキアなどが欲しがる高級な部品を作れるはずがない。私たちは神を知らないけれど、どの国も作り出せない精巧で耐久性の高い最先端の技術に裏打ちされた製品を作る、神に仕えるような無私の心で仕事をしている。自分の都合を二の次にして、仕事に取り組んで作り上げられた製品が世界中で買われているので、豊かさが享受できている。小生などその貴い銭で贅沢をしている。東北地方にこれだけ多くの世界の企業から信頼される部品を作り出す工場があるなど全く知らなかった。彼らの給料は、日本の豊かさを支えている貢献度から考えれば驚くほど過小評価されているであろう。それでも不平を言わずに技術の粋を集めた電子部品を作り続けている。これが日本人の生きる流儀だと思う。東電の職員も同じはずである。事故の最中に利益のことより、事故を一刻も終息させたい、祭壇である仕事場が破壊されるのを最も恐れたに違いない。海水の中のNaClが容器を腐食することに足がすくんだ。
 東電が、深刻な事故の最中にも利益優先を第一に対応していたとすれば、私たちも同じお金優先のさもしい精神の中で生きていることを示しており、東電職員ではなく私たちすべてがその責を負わなければならないであろう。東電職員も私たちのmentalityの中で生きている。
 東電が利益優先であるとの批判の根拠のもう一つに、3月12日に格納容器の圧力を下げるために内部の水蒸気を外へ排気(ベント)することを躊躇したことを上げることができるかもしれない。事故の翌日12日に、管直人首相は自衛隊ヘリで福島第一原発に乗り込み、机を叩きながら「なんでベントを早くやらないか」と怒鳴り散らしたという。その後、総理大臣が陣頭指揮を執って、事故の終息に当たっているとは聞いていない。原発の専門家でもない管直人氏は系統だった事故の処理に当たれるはずがない。直ちにベントをしなかったことに、大きな東電の手落ちがあったかの如くの報道は、東電に今回の事故の責任があるかの印象を与えるために極めて有効であった。政府筋も、ベントをしなかったことを繰り返し取り上げた。何か下心があるのであろう。私は、ベントをすると「放射能をまき散らす」、他の言葉でいえば祭壇である仕事場が穢れるとの恐れでベントを躊躇したと考えている。しかし「なぜベントをやらぬ」を聞くたびに、東電が今回の事故の主犯のように多くの人が感じるのではないだろうか。
 そして最後は事故発生4日目、15日に管直人総理大臣は東京の東電本社に朝5時ごろに乗り込み、3時間滞在して「撤退などあり得ない。覚悟を決めて下さい。撤退したときは、東電は100%潰れます」と恫喝して別室に移って居眠りをしていたという。撤退などありえないという叱責には、深刻な事態に、自分たちのことだけを考えて逃げ出そうとしているとのニュアンスがある。国民を信頼しない総理大臣を頂いている状況はあまりにも悲しい。東電の職員の今の働きを見ていると、無用な被ばくを防ぐために、職員を退避させるという言葉を総理大臣が早とちりしたのは明らかであろう。しかし撤退などありえないという総理大臣の言葉は重い。東電は自分たちだけの利益を最優先させる会社であるとのイメージを植え付けた。
 東電には主たる責任はない。法に従って、電力を供給していただけである。では一体今回の事故の責任の所在はどこにあるのであろうか。国である。
続く

by rr4546 | 2011-04-12 18:24 | 日本人論 | Comments(0)