医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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創世記 No.27 アブラハム物語 No.22 憲法9条

 憲法9条に触れておきたい。アブラハム物語は現代の諸問題を考えるためにも多くの示唆を与えます。驚くべきことです。

護憲派の言い分 
 リーダーが民主主義の理念をよく理解していない。一方護憲派といわれる人たちも全く民主主義の本質を理解しないで、「わたし達は平和を築いてきた」ということは「私は平和主義者である」と自慢話に余念がない。異様な状況が起こっています。若いリーダーがどのような将来ビジョンを持って憲法を変えようとしているのかわたしの想像を超えていますが、改憲が政治日程に上げられました。そして多くの人が守れないが、人類の叡智が奇跡のように作りあげた憲法9条を、強力な自衛隊を持ちながら残すべきだとの主張を展開しています。
 「憲法9条は、たった一つ日本に残された夢であり理想であり、拠り所なんですよね。どんなに非難されようと、一貫として他国と戦わない。二度と戦争を起こさせないという姿勢を貫き通してきたことに、日本人の誇りはあると思うんです。他国からは、弱気、弱腰とか批判されるけれど、その嘲笑される部分にこそ、誇りを感じていいと思います」(太田光  憲法九条を世界遺産に)、「日本人が今まず行うべきことは、『問題の先送り』という疾病利得を得ることの代償に、憲法九条と自衛隊の無矛盾的並立を矛盾として苦しみ、それでもなお生きながらえてきたという動かしがたい事実を世界に告げることだと私は思うのである」(内田樹  憲法がこのままで何が問題でも? 9条どうでしょう)、「憲法が、『現実』と落差をもつ形で、それでもやはり『理念』として―自衛隊の存在とともに双方に居心地の悪い位置を与えながらー機能してきた点に、憲法9条の本質を見ておきたい」(加藤典洋 戦後から遠く離れてーわたしの憲法『選び直し』の論  論座 6月号)、「日米同盟の安全装置としての9条のメリットは捨てがたい。そもそも、この60年をかけて培ってきた日本の『平和ブランド』を手放す損失は大きすぎる。日本ほどの経済力を持ちながら、軍事に厳しく一線を画す。このユニークさは国際社会にも知られ、重要なソフトパワーになっている。それを生かしてこそ、『国際公益の世話役』として日本の信頼を築くことができる」(9条改正の是非 社説21 朝日新聞 5月3日)。
 ここに上げた護憲派の人たちには、私たちの精神構造の長所も欠点もはっきり出ていて興味深い。指摘しているとあなたは人を謗ることが趣味かと叱られそうですので、今回は憲法は民主主義国家にとってどういうものであり、平和を築くためにわたし達はどのような努力を払わなければならないかについて書いておきたいと思います。

自衛隊の装備
 護憲派は、9条が戦後の日本の平和的歩みの拠りどころとなって、武力に頼らない国を作ってきたという点では一致しています。朝日新聞の論説委員氏にいたっては9条のお陰で「平和ブランド」を手に入れたと、若者がシャネルのバッグを買った時のようなはしゃぎ様。ここには戦後、国力といっても経済力ですが、経済力に応じて、政府が9条を拡大解釈に拡大解釈を重ねて、世界の4位とも5位ともいわれる強大な軍事力を持つ自衛隊を作り上げてきたことに対するコメントは全くありません。弱腰であったことなど決してありません。ベトナム反戦、安保闘争、イラク戦争反対など色々な反戦運動がありましたが、反戦家の主張が国の基本的な歩みに影響を与えたことはほとんどないと思います。反戦家の言うことを聞かないで歩む道を間違えなかってよかったというのが現在の常識。日米安保条約にまつわる出来事を思い出せば一目瞭然。いや武力行使が解決のための一つのオプションになる紛争に遭遇して、多数の国民が9条を盾にして我慢に我慢を重ねて武力行使を思い止まった、こんなことがあれば本当にうれしいのですが、そんな自制的な振る舞いをした記憶も全くありません。それでも9条を有難がる。
 幸いなことに戦後、わたし達の周りで武力に頼って解決しなければならない紛争がなかった僥倖に感謝する方が先だと思います。9条がなかったら、自衛隊は現在よりはるかに強大な、アメリカに匹敵する軍事力を装備していた。あるいは外国に出掛けて大量の血を流す軍事作戦を展開していたと想像しているのでしょうか。
 他国を侵略して支配するのが許された帝国主義時代が終わった現代の民主主義国家が持つ軍事力はアメリカといえども、本音はともかく、他国からの侵略から国民を守るために十分か不十分かという、シーリングのもとで整えられていると思います。歯止めがなければ強力な軍産官のトライアングルが出来上がっているアメリカで、攻撃されたらどうするかと恫喝する軍部になすすべがなく、アメリカ軍は今以上に巨大な組織になっています。軍人出身のアイゼンハワー大統領がホワイトハウスを去るに当たり、軍産官の横暴に注意を払うよう呼びかける演説を行いました。アメリカの肩を持つわけではありませんが、戦争好きなアメリカで軍人が政治の表舞台で力を誇示する姿を見たことがありません。文民統制が機能しているのでしょう。軍事大国アメリカにもどの程度の軍事力を持つべきかの基準ー勿論公表はしていないでしょうーがあると思います。そうでなければ世界は早晩血の海で崩壊します。
 民主主義を共通の価値観とする国の軍事力は自国民の安全を守るためだけで整備されている。このコンセンサスがなければどの国も、どの程度の軍隊を持つべきかについて喧々諤々と議論がおこり、大抵マッチョな人間の言い分が通ります。かってのイラク、北朝鮮、ミャンマーそして最近のトルコを見れば軍部が政府に対峙するほどの力を持ち、いつでも軍の独走が起こっても可笑しくない状況が見られましたし、見られます。日本でもありました。戦前軍事費が国家予算の何割を占めていたか思い出せばよく判ります。アフリカでは多くの地域で武装勢力が専制支配をしています。
 民主主義国はその愚を繰り返さないための知恵を磨き続けてきたと信じたい。冷戦時代の軍拡競争は別のロジックで起こっていましたが。
 自衛隊の軍事力は9条によって箍が嵌められているのではなく、日本の安全を預かる政府が隣国からの侵略、あるいは遠方からのミサイル攻撃などの起こりうる危険をシュミレイションしながら決めていた。そして最も重要なことは経済力に応じて、装備が整えられた。自衛隊の戦闘能力を巨大にする必要性がなかったのは、東アジアの国々が第二次大戦中の惨禍から立ち上がるのに忙しく、わが国の脅威となる軍事力を整備する余裕がなかったからに過ぎません。その上に幸いというか不幸というか、これ以上自衛隊に予算を付けるほど経済的余裕がなかった。
 ともあれ現在の自衛隊の戦闘能力と、日米安全保障条約を勘定に入れれば、日本は世界最強の軍事力という鎧兜で身を固めているといっていい。9条が足かせになって自制しているところは全くないとは言いませんが、極めて少ない。

平和を作るもの
 日本の平和ブランドを作ったのは9条のお陰であるのか、そうでないのかについて多くの議論があるでしょう。軍事力ガどうあるべきかをホッブス理論で考えると、私は平和主義者が考えているような、 9条が平和国家を作ってきたというような妄想を持つことができないとだけは言っておきたいと思います。 9条を持ち上げるより戦後平和でありえたことは、幸いなことに中国を初め隣国が日本に軍事的脅威を与えなかったことを挙げておきたい。平和というと自国一国で築けると私たちは錯覚します。平和は一国の努力で作り上げられるものではなくて、異質な他者である隣国とそれこそ寛容で謙虚な心を持って、二国で知恵を出し合い、互いを尊重しながら努力して作り上げていくものでしょう。一国の平和は脆い。いや不可能である。妄想である。平和国家を標榜していても他国が侵略してくれば、平和は崩れ騒乱は容易に生み出されます。平和は一国の中で語られるのではなくて、他国との関係の中で語られなければならない。他者というと哀れんだり、見下ろしたりする対象と考え、パートナーという考えを持つ習慣があまりないわたし達は、自分たちのメンタリティーの長所や欠点を良く弁えて、平和を語らなければとんでもない唯我独尊的な平和論を語り続けることでしょう。
 夫婦という小さい単位を見ても、どちらかが風波を立てないで仲良くやりたいと最善の努力を払っても、連れ合いがそっぽを向いてしまえば終わり。どちらかが努力していれば、二人の関係がうまくいくということであれば有難いのですが、残念ながら事はそんなに簡単ではない。不思議なことですが俺が私が頑張っているからうまく行くのではなく、連れ合いが色々心を砕いてくれていることに気がついた時、やっと個性の違う二人が穏やかな歩みを始める。アブラハムは自分を誇るのではなくて、異質な他者である主が、絶対の愛であると腑に落ちた時、一人の歩みから二人での歩みを始めました。そして共同体を作りあげることができたのです。平和に暮らす秘訣は夫婦間でも、多国間でも同じです。自分が平和主義者であれば平和を達成することができる。この世の道理はそうなっていない。相手を尊重して、言い分に謙虚に耳を傾ける努力を怠たったらすぐ取り返しのつかない争いは始まるでしょう。
 護憲論者は自分が血生臭い武道派ではなく、平和主義者であることを、9条に託けていっているだけだと思います。都合が悪いことが起これば、人の悪口をいい始めるでしょう。9条のために一体何をして、何を実現させたか考えるだけで、それくらいのことが理解できる知性を彼らは持っているはずです。武道派より平和主義者と見なされる、あるいは信じることが余程心地がいいのでしょう。正しい自己洞察をわたし達は忘れがちです。
 寛容だとか、平和主義者だというのは、自分から言い出すのではなくて、他者から寛容だとか、平和主義者だと言われるようになりたいですね。隣国がわたし達をどう評価しているかに真剣に耳を傾けなければなりません。自分の方から寛容だとか平和を愛しているとか言いすぎです。わたし達はもう少し控えめでした。
 ただ主権国家が軍事力を持たないで、国民の安全を守ったということは原始時代から現代に至るまでなかった。残念ながら主権国家が軍事力以外の方法で、国民の安全を守る知恵をまだわたし達は手に入れていません。武力以外で安全を守る方法を見出すことが、新しい時代を生きていくわたし達に課せられた最も大切な責務でしょう。9条で解決済だと自慢話をしていれば馬鹿にされるでしょう。

憲法9条は改正するべきである
 9条を見てみましょう。
 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」(憲法9条)。
 多くの論者が痺れるはずですね。私もこの憲法の理念に全く同感で、異議を挟むところは何もありません。ただ現実の政治の場では、この理念とは全くかけ離れたかたちで戦後一貫として9条を拡大解釈して、世界でも有数な戦闘能力を備える自衛隊を作り上げてきました。政治家だけではなく、国民の多数も、現在の国際状況では、この憲法通りに生きていけば、主権国家として、国民の安全が守れない可能性があるとの冷厳な事実を受け止めていたのでしょう。それが正しい選択であったかどうかについては大いに議論をする必要がありますが。
 実際護憲派も9条の理念を高く評価し、改正してはならないと主張しながらも、自衛隊を持つことを容認しています。両天秤をかけているます。この矛盾した状況を「憲法九条と自衛隊の無矛盾的並立」とか「憲法が、『現実』と落差をもつ形」とか難解な言葉で表現していますが、何のことはない軍隊を持ってよろしいといっている点では、改憲論者と全く同じ立場です。ただ護憲派は、俺は平和主義者で、武力に頼るのは反平和主義者と、相変わらず「義は俺にあって、非は相手にある」と、わたし達の十八番の自己評価の下で、いい子ぶっているだけのように見えて仕方がない。平和の味方だと思っていないと精神のバランスを崩すのでしょう。正直に軍隊が必要であると主張する人より屈折していて、性質が悪いかもしれない。どちらの人品が優れているのか卑しいのかを論ずる積りは全くありません。
 ただ憲法というものが一体どういうものであるかを指摘して護憲派たちの反民主主義的な体質を指摘しておきたいと思います。憲法を広辞苑で検索してみました。
 「国家存立の基本的条件を定めた根本法。国の統治権、根本的な機関、作用を定めた基礎法で、通常他の法律・命令を以って変更することが許されない国の最高法規である。」(広辞苑)。国家の組織や統治の基本的な原理や原則を定めた根本規範(法)ということでしょう。
 難しい定義でタメ息が出ますが、民主主義国家は無法では成り立たない。臣民による主権者リヴァイヤサンの選出、多数決原理そして法治主義が民主主義の最も重要な属性であり、法の支配を象徴的に示しているのが国の最高法規である憲法ということでしょう。法を守って始めて民主主義は成り立つ。法治主義がいい加減では絶対に民主主義は成り立たない。
 護憲論者は憲法は高邁な理想を書いておくもので遵守するものではないといっています。国が法令違反をしています。彼らはそれを了解しています。主権者の下で戦争状態を回避するためには、阿吽の呼吸の合意や、常識や、高邁な理想は何も役に立ちません。民主主義のシステムを維持するためには、どんな都合があっても、どんな言い分があっても法令遵守が基本の基本です。コンプライアンスがいい加減ではホッブスがアブラハムに倣って目指した「愛の国」の実現もなければ、維持も出来ません。国が法律に対していい加減な態度を取ったり、都合によって解釈をどんどん変更していく。こんなことをしていては法令違反の不祥事が、政界、官界、高校野球界を初めとした庶民のわたし達の間でも当たり前になるでしょう。法律は理想が書いてあるのでこちらの都合で破ってよろしい。
 「イエスキリストだって十字架の上で、このまま私を見殺しにするのですか、と神に向かって訴えたけれど、神は沈黙したままでした。おそらく日本国憲法も、そういうものだろうと思うんですね。それは言葉にされた理想なのですから、現実に対していつも有効に働けるとは限らない。働けないケースのほうがずっと多いでしょう。でも、たとえそれでも、そういうものは捨てていけないんです。そういうものを簡単に捨ててしまったら、日本人は、大きな精神的拠り所を失うと思います」(中沢新一 憲法九条を世界遺産に)。
 護憲論者はコンプライアンスの精神を全く持っていません。法治主義を謳う民主主義の理念を理解していないという点では若きリーダーと似たりよったりです。最高の規範である憲法を守らないでよろしい。わたし達の間に、法令違反を特に罪悪と考えない風潮を生み出し続けていくでしょう。国が遵守しないのに、下々のわたし達がどうして面倒なそして不都合な法令を遵守しなければならないのだ。法令より自分の都合を優先させるとの声が聞こえます。スカートの中を覗きたい。どうしてそれを禁止する法律を作るのだと、馬鹿なことを言っている元大学教授がいます。国も法律を守れと大声で言えない。いや新しい法律で若者に「規範意識」を教育すると若いリーダーは約束しました。若者は大人の背中を見てしか育ちません。
 主権国家の権利である自衛軍を保持することを9条に明記するべきです。充分すぎる陸海空軍その他の戦力わたし達は持っています。持っているけれど格好いいから憲法では禁止しておく。こういう矛盾をそのままにしておくと、国民の法令遵守の精神は益々荒廃して、アナーキーな日本ができあがるでしょう。

自衛か攻撃か
 自衛軍の保持を憲法に書き込む時は、自衛と攻撃の違いを明確にしておくべきです。政治家、憲法学者、自衛隊幹部、反戦思想家、宗教家そして国民すべての知恵を総動員して、過去の教訓を思い出しながら、未来の国家のあり方を示唆するような、現段階では最善な「自衛の限界」をはっきりと書き込むべきです。自衛と称して、アメリカのように遠く離れたイラクを攻撃するようなことは許さない。生命線を維持するためと称して他国で戦線を拡大することも許さない。わたし達はすでにアメリカの被害妄想を真面目に助けているのですから、こんなことは難しいかもしれない。自爆テロは暴力ではなくて追い詰められた者の恐怖から来ている。恐怖をもたらしていることの改善に努めなければならない。
 しかしめげていては、新しい日本を作ることはできません。自衛と攻撃の境目は極めてファジーで、100人いれば100通りの見解が出されるでしょう。しかし自国の歴史だけではなく、人類が歩んできた過去を徹底的に検証して、その上預言者のような未来予知能力を磨き上げて、「自衛」を定義しておかなければなりません。どうとでも取れる曖昧さを許さない憲法を作るべきです。
 自衛と信じているけれど、他国から攻撃だと非難されるような軍事行動は決して取らない。これこそを誇りとするべきです。日本人の叡智を集めた新しい憲法9条が出来上がれば隣国が靖国神社を参拝することに過敏に反応することはなくなるでしょう。世界は日本を平和愛好家と見ているのではなくて、神国日本を再建することを企んでいると見ている可能性は高い。実際それを考えている人が若いリーダーの周りにいます。憲法で禁じていながら、強力な自衛軍を持つ。集団的自衛権と紛らわしい協力をする。平和国家であることを信用せよ。同意を得ることはかなり難しいと思います。この程度で甘い評価が得られると期待するようでは先が暗い。
 なぜ自衛と攻撃の境目の真剣な議論がなされないのでしょうか。法令違反を奨励するような議論に時間をとるのでしょうか。若者のコンプライアンスの欠ける振る舞いは益々性質の悪いものになるでしょう。

民主主義理念の再学習
 リヴァイアサンの定義も誤解している、法治主義に対しても全く無頓着。わたし達が民主主義を理解しているとは到底いえない。一部のの法律家は政治的自由を保障するために考え出された国家権力を立法、司法そして行政の三つに分ける三権分立がわたし達の間では全く機能していないことがわたし達の民主主義を形骸化していることを教えています。
 憲法を守っているかどうかは立法府が判断するのではなくて最高裁判所がしなければならない。「自衛隊の前身である警察予備隊の設置や維持に関する法令の制定をも含む一切の行為の無効確認を求める訴えが提起されたことがある。これに対し、最高裁は、具体的事件を離れて抽象的に法律、命令等が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有するものではないものとして、訴えを却下した(昭和27年10月8日判決・民集6巻9号783頁)」(Wikipedia)。
軍隊についても憲法学的な判断が示されていれば、法に対してこんないい加減な国にはならなかった。アナーキーな、独善的な世界を勧める知識人や文化人が山ほどいます。誰が欧米先進国の間で共有する価値観である民主主義の理念を語るのでしょうか。わたし達は民主主義とは無縁な精神世界の中に住んでいるのかもしれない。しかし現段階では民主主義に代わる生きる規範を見つけることは不可能な感じがします。
 民主主義は人が生きている道理に合うように磨き上げられた知的なシステムです。今まで繰り返し語ってきましたが、自分があって太陽があるのではない、太陽があって自分があるという不思議な生きる理を政治的システムにしただけです。この当たり前のことに腑に落ちるためには、仏教的、儒教的そして多神教的な自分の上にある中枢的な秩序に全く無関心で自己を中心とした生き方を見直さなければならない。中枢的制御、主の下で生きていくと、どう考えてもわたし達の理解を超える流儀で生きたアブラハムの生き方に目を向けなければならない。アブラハムの知恵に従えば、リヴァイアサンの下で生きていくことやリヴァイアサンの決めた法に従って生きていくことが、生きていくための基本的な流儀であることが良く理解できると思います。その生き方はわたし達には無縁ではありません。わたし達の誇りとしている茶道の中に見事に示されています。がぶ飲みするお茶も美味しいですが、作法に従って飲むお茶も格別に美味しい。オーケストラも指揮者の棒に全員が従って初めて見事な音楽が奏でられます。

by rr4546 | 2007-06-24 11:09 | 日本人論 | Comments(0)