医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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「ダ・ヴィンチ・コード」上映に対するボイコット。No.4 日本の神とは?

日本の神とは?

 一神教徒たちが信仰している神は被造物に宿る神ではなく天地と生き物を創った神である。創造神であろうと山川草木に宿る神であろうと、神ではないか。どこがどう違うのかと戸惑う私たちにはなぜ彼らが創造の神を信仰するのか良く判らない。 
 自分の意志でこの世に生まれ出てきたわけではない、被造物であることは当たりまえではないかと言いながらも、被造物の分際を弁えないで、自分の思いだけにより頼んで一途に頑張ってしまう私たちはムスリム(イスラーム教徒)が一日に5回カアバ神殿に向かって自分を創造した神を賛美している姿に接すると、何か異様な感じを持ってしまう。私たちは自分だけを賛美しているのかもしれない。創造主のようにすべてを支配して生きていこうとしているのかもしれない。しんどいことだ。ただ繰り返しますが地球上に住む人間の半分以上が、被造物に過ぎないと深く自覚して、神に祈りを捧げて生きています。彼らの心のうちを学んで損はないでしょう。

 ユダヤ教では神をヤハウェと呼び、キリスト教ではイエスと呼び、そしてイスラーム教ではアッラーと呼びますが、この異なった名前を持つ神はアブラハム、イサクそしてヤコブの神と呼ばれる旧約聖書の冒頭に描かれているこの世を創造した神を指しています。彼らは同じ神を信仰しているのです。あの人には神で、あの人には神ではないという不思議な神は存在するはずがない。神は神であって普遍的な存在で、誰もが等しく仰ぎ見ることができるはずですからね。

 それに反して、私たちは祖先神である伊勢神宮に祀ってある天照大神に参拝して、私たちの繁栄や世界の平和を祈願します。勿論大日如来や阿弥陀如来も礼拝しますが、このことはおいおい触れることにしましょう。同じアジヤ人である中国や韓国の人たち、いや欧米や中東の人たちが決して崇拝することのない独自の神を信仰していても何も違和感を持たない。むしろほかの国の人たちが拝んではならないといわんばかりに振る舞っています。欧米や中東の人たちにとっては“Who is 天照大神?”であろう。彼らに私たちの神の偉大さは理解できまい。他の人たちにも拝んでもらい、その霊験に与かってもらいたいとの寛容な発想はほとんどない。自分たちだけのことを願ってしまう。
 創造の神について思いを馳せない上に、他国の人には神と認められない神を一生懸命に拝んでいます。私たちの神が、アジヤ人や欧米人にとって神でなかったら、私たちの神を神と呼んでいいのだろうか、冷静に考えるとどこか論理矛盾があるような気がして頭が可笑しくなってきませんか。しかし「心の問題である」と胸を張って英霊の鎮魂のために参拝に行く。この問題について別な機会に大いに論じたい。これを整理して言語化しておかないと私たちの精神世界は豊かにならないように思う。神社の前で「戦没者の方々に対して、敬意と感謝の思いを込めて、哀悼の誠を捧げる」との一国の総理の祈りに対しても、ロシヤを始め隣国の人たちに宗教的意味が伝わらなくて、政治的パフォーマンスと誤解されて、挙句の果てに無用なナショナリズムを煽り立ててしまっている。その原因を考えようとしないで、少しもたじろぐことがない。ほとんどの人がことの善し悪しを考えないで、隣国の言うがままになってはならないと、よかったと評価してしまう。どうしてこのような鬱陶しいことが起こるのかについて、他国の所為にしないで、私たちの問題として真剣に考えなければならない時が来ている。議論を積み重ねなければならない。身内だけで通用する理屈で信仰生活を送っていると、外国の人は日本人は信仰生活と政治とが区別できない原始的な時代を生きている人たちだと誤解することでしょう。現実に、哀悼の誠を捧げるための参拝を切っ掛けとして、隣国ロシヤまで神国日本が攻めてくるのではないかと脇を固めてしまった。本来返還するべき北方領土の領有権を担保する行動を取らせてしまった。8月16日(8月15日の翌日)未明に根室湾中部漁港所属のカニかご漁船の乗組員がロシア国境警備局に銃撃・拿捕され、一人の乗組員が死亡した悲しい事件も一国の総理大臣が終戦記念日に靖国神社に出掛けたことと無関係ではないと思う。善隣外交そして平和主義は私たちの誇るべき国是だが。祈りの行為によっても、不気味な政治的メッセージを与えてしまう理由について私たちは真剣に考えなければならない。そうでなければ大国として歩んでいけない。大切な友人を失うだけではなく、ロシヤをはじめ中国などが密かに日本に対する敵意に満ちた包囲網を作り上げてしまうであろう。
 いや私たちは、ユダヤ人もイラク人もそしてアメリカ人もやはり祖先神を持っているではないか、なぜ彼らも同じように祖先神にお参りしないのだと心のどこかで優越感を持って笑っているのかもしれない。神は普遍的な存在なのか、ローカルな存在なのか、どちらが真実なのだろうか。心を豊かにするためにもよく考えておきたいですね。
 私たちだけの神でいい。他民族に理解を求める必要はない。私たちの神が、中国人や韓国人に目もくれず、彼らに何のご利益をもたらさなくても知ったことかと打っちゃっておくことには何か心に引っかかるものを感じるのですが。狭隘な精神世界に閉じこもって、他者の理解を拒絶するところにアイデンティティーを見出そうと大層無理をしている気がします。
 こんなことを書いていると、冷戦後の世界は西欧文明、ロシヤ正教会文明、ラテン・アメリカ文明、アフリカ文明、イスラム文明、ヒンドゥー文明、中華文明(儒教文明)、日本文明と8つの異なった文明間の衝突が繰り返されると論じた「文明の衝突」、「文明の衝突と21世紀の日本」の中でサミュエル・ハンチントンが指摘しているように、日本は普遍的な宗教に支えられない独自の文化を持っていて、どの文明からも孤立しており、その時のスーパーパウワー(かってはドイツ、今はアメリカそして将来は中国)に従属して生きていくとの指摘を読んだ時に感じた恐ろしさを思い出しました。君たちは孤立しては生きていけないのです。
 それと対照的に、アブラハム、イサクそしてヤコブの神はユダヤ人だけではなく、欧米や中東やアフリカの人たちにも信仰されている。独自の神を持っている私たちには判りにくい信仰世界ですね。これを理解するためには唯一神の働きについて学んでおかなければならないと思います。

唯一の神の御業?
 アブラハム、イサクそしてヤコブの神の属性については、天地と万物を創造された、時代や地域に縛られないで遍く働いておられる、全知・全能である、善に報い、悪を罰するそしてご計画に従って、自然と歴史を支配しておられるなどがあげられるでしょう。ただこのような抽象的な働きをいくら挙げても、一神教徒たちがアブラハム、イサクそしてヤコブの神を信仰する理由に合点がいくわけではありません。狐につままれた心地がするばかりです。なぜ私たちには身近に感じられないのかと苛立つことでしょう。
 ここをよく考えることが一神教徒たちの心を知って私たちの魂を広く豊かにするために欠かせません。
 神はモーセを通して、主の戒めを守り、真実と正義を大義として生きていくために10の戒めを与えられた。モーセはそれを石版に書き付けた、十戒と呼ばれる神の啓示です。冒頭に神は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいて他に神があってならない・・・・・」。守らなければならない最も大切なことは、奴隷から開放して下さった神を信じることだ。一神教徒の信じる神は奴隷を開放する神である。私たちの想像を超えた神観ですが、世界中の一神教徒の数を見ると、この神の働きに多くの人たちが信頼を寄せているという他ない。
 アブラハム一族の3代目の族長ヤコブの時代にカナン地方は大変な飢饉に襲われた。穀物を求めて、豊かな国であるエジプトに逃れることになった。そこには兄弟たちに捨てられたが、エジプトで高官として務めていたヤコブの子であるヨセフが不思議な成り行きでヤコブ一族を迎えることになった。ただアブラハム一族は牧畜を生業としていたために、当時栄華を極めていたエジプトで奴隷として扱われることになった。430年間の長い奴隷生活の後に、ユダヤ人モーセが密と乳のあふれる土地へと同胞を導いていった。ユダヤ人が繰り返し思い出す神の恵みです。この困難に満ちた脱出は、二つに分れた紅海の中を渡り終えた後に、追跡してきたファラオの軍勢が海にのまれて全滅する等、多くの奇跡によって成就した。ユダヤ人は生涯、エジプトから脱出するために働いてくださった神の御業を忘れないよう十戒を唱えています。旧約聖書の中でもヤハウェを「奴隷の家から導き出した神」と繰り返し呼んでいます。創造だとか、全能だとかという抽象的な言葉では伝わらない具体的な神の働きとして、奴隷の家から私たちを導き出したという奇跡を覚えることがユダヤ人が生きていくためには欠かせないのでしょう。そして一神教徒たちもその神の力を必要としています。
 ユダヤ人は神の言葉が啓示されたので「選民」と称えられたりすると同時に、エジプトの奴隷であった過去を持ち、さらに遡り、「ユダヤの王」と名乗った男を十字架で殺したことから「賎民」とも呼ばれてきました。このような経緯を踏まえて、ニーチェはキリスト教が弱者の憎しみを裏返しにしたルサンチマンの思想からなっていることを指摘し、神は死んだと宣言しましたね。
 しかし神は死ななかった。一神教の教えは奴隷であるとの自覚の上に成り立っていますが、不思議なことに今でも生きています。キリスト教福音派の敬虔な信徒と自称しているあの悪名高いブッシュが奴隷と自覚して、信仰を持っているとはとても思えませんが・・・・・。
 ユダヤ人たちが奴隷と呼ぶ世界の中には、私たちがイメージする奴隷観だけでは語りつくせない何かほかの含意があるのでしょう。これについて考えないと、ユダヤ教もキリスト教もそしてイスラーム教の人たちが信じている「奴隷の家から開放した」という神の属性をよく理解できないでしょう。一神教徒たちの心に触れることはない。

奴隷とは?
 奴隷という言葉から私たちは、普通の人間より劣った、人として扱われない人たちの一群をイメージするのではないだろうか。一神教徒たちは奴隷の集まりである。そんなことはブッシュを見ていると想像もできない。私たちの指導者は、ブッシュの前で従順すぎるほど従順で、無理を聞きすぎるとの思いが拭えませんが、そうすると誇り高い私たちは奴隷の弟分ということになってしまう。どうやら「奴隷」と神が呼ぶ奴隷にはもっと深い意味があるのでしょう。

 被造物であるがゆえに多くの限界に阻まれて、理想を手に入れられないで格闘している人たちのことを呼んでいるのでしょう。武力や経済力が乏しくて、スーパーパウワーに陵辱されている人。体力と知力に限界を感じて目標に到達できないで苦しんでいる人。思い通りに正しい道を歩けない人。奴隷とは多くのしがらみに縛られて本来あるべき自由で豊かな人生を歩むことのできない人たちのことを言っているのでしょう。自分の本当の姿に思い至った時に、アブラハム、イサクそしてヤコブの神が奴隷を解放して、蜜と乳の溢れる地に導く力を持っているとの神の働きにリアリティーを感じることができるのでしょう。満たされていて、何のわだかまりもなく人生を愉しんでいる人にはアブラハム、イサクそしてヤコブの神は無縁なのでしょう。奴隷の家に住んでいないのだから。これしかないだろ、仕方ないだろうとすぐ悟ってしまう人にも無縁でしょう。新しい世界に行こうとしないのだから。
 創造の神は、煩悩と呼ぶ我執や渇愛を解き放って仏になることを約束するのではない。怨霊の祟りを鎮めたり、棚から牡丹餅の行幸を約束するのではない。人と神との区別のつかない人たちにも働かれない。奴隷を解放する働きを持っているだけである。もう一つ腑に落ちませんが一神教徒の心を理解するためにはどうしてもこの当たりの事情を体で判らなければならないと思います。このbarrierを超えることが心の成熟のためには欠かせないと感じます。
 多くのしがらみに縛られた奴隷と自覚できた時、アブラハム、イサクそしてヤコブの神はリアリティーを持って顕現してくる。奴隷であると自覚できない人には無縁な存在なのでしょう。奴隷と自覚することには多くの困難を伴うのでしょう。ただこの自覚が赤ん坊の身近にあるのか、大人の近くにあるのかよく考えなければならない。
 一神教徒たちの信仰の出発点には、奴隷との自覚があった。私たちには馴染みのない自覚である。しかし看過してはならない核心だと思う。
 私たちが唯一の神とは生涯無縁であることは、考えようによっては、不自由な奴隷であると自覚しないで生きていけるほど、幸運に恵まれているというべきであろう。ブッシュのようなスーパーパウワーを手にしている人物でもなお奴隷であるとの自覚を持って日々を送っている。この精神世界を無視してはならない。私たちが謙遜なのか、一神教徒が謙遜なのかよく考えなければならない。
 彼らは私たちのように煩悩を逃れるために空を観じて、即身成仏することを求める仕方とは全く違った仕方で生きている。「ダ・ヴィンチ・コード」ではこの上昇志向だけの男性原理的な生き方を批判しているのですが・・・・。

神の助けは必要なのか?
 その上彼らは、奴隷の身から自由な身になるためには人間の力だけでは成就できないと信じています。ことを成すには、神の助けを必要としていると信じて祈っています。突然、見性成仏して神の助けなしで生きていける私たちとは全く異なった生き方という他ない。奴隷から解放されるためには、助けを必要とするのか、必要としないのか。一神教徒は奴隷と自覚して、新しい世界へ脱出するために神の助けを必要と考えている人たちなのでしょう。奴隷ではなく仏であることを悟ることを第一の目標とする私たちには、理解を超える世界ですね。
 ただ、地球上には仏と自覚している人より、奴隷と自覚して生きている人のほうが遥かに多いということはしっかりと頭に置いておきたい。奴隷からの開放を神の助けなしで成し遂げられると考える人より、神の助けを必要としていると考える人の方がmajorityであることは知っておかなければならない。
 又ややこしい話になりましたが、創造の神に親しむためには、被造物であるとの謙虚な思いが必要であること、また神ではなくて奴隷であるとの自覚と、神の助けがなければ奴隷から自由の身になれないことに得心しなければならないことを書いてみました。仏と自覚することと、奴隷と自覚することのどちらが成熟した魂に宿るのでしょうか。赤ん坊と大人の頭の中を見比べるとよく判るような気がします。
 ただこの信仰世界が、現在起こっている深刻な南北格差や環境破壊を生み、そして市場原理主義的な競争社会を支えているのではないかということをダン・ブラウンは指摘しています、面白いですね。勿論無神論の立場からではなく、どうも彼はユダヤ教徒と思うのですが、ユダヤ教の立場から異議申し立てをしている。イエスの血脈としてのソフィアと言う人物を造形して現代の問題点を浮き彫りにしたのは見事という他ありません。
 これではキリスト教徒がイエスに子があるという物語に抗議をすることに何も答えてないと憤慨されそうですね。そこでまず旧約聖書に目を通して、その意味するところを理解して、旧約聖書の世界からなぜ十字架で殺される神が生まれてきたのかを論じて、疑問に答えたい。できれば未来を持っている若者がジハードと称して、自爆テロをする背景を。しかしこんなことを書いていると、日本人の魂と一神教徒たちの魂のどちらがglobal standardの魂なのか考えさせられます。本当に大切な知恵は何かということを考えさせられます。続く。

Commented by 楽子 at 2006-08-29 17:40 x
信仰心というのは多くの場合、自分を取り巻く周囲の環境などで無意識に植えつけられていくものですね。自分の意思とは無関係に催眠暗示にかけられているような気がします。日本人の魂と一神教徒たちの魂、どちらがどうとかまだよくわかりませんが、私自身としては、生きている間は奴隷であり、死んだら仏になるという感覚が一番近いようです。
by rr4546 | 2006-08-26 14:34 | 宗教 | Comments(1)