医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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米乱射事件―銃社会に決別する時だ朝日新聞社説コメント

 銃の悲劇がアメリカで繰り返されている。悲しいことである。西部アリゾナで有権者と対話集会を開いていた下院議員が頭を撃たれて重体になったとの報道が先日なされた。そして朝日新聞は「本気で銃規制に取り組むべきだ」との社説を早速載せた。私は2,3年前に銃規制について別なことを論じている。再掲しておきたい。「一神教的思考様式を学ぶー創世記―」からの抜粋である。
アブラハム物語
銃の保持(p190-194)
銃社会
 民主主義国で銃にまつわる忌まわしい事件が続きますので、絶対的な力を持つ主権者が個人の権利を侵害する場合、個人がどのような抵抗権を持つことができるかについても考えておきたいと思います。抵抗権のシンボルとしての銃を持つべきか、持たざるべきかについて、ホッブスならどう発言するかについて想像してみたい。ホッブスの描く国家のイメージが少しは具体的に見えてくるかもしれない。絶対的権力者の下では個々の権利は認められないと、私たちは直感的に思い込んでしまいます。
 秀吉は、当時のmajorityであった農民から武器を没収する刀狩を行い、血なまぐさい戦いの乱世の中から新しい体制を作りました。以来、庶民である私たちはお上に逆らわないで生きていく流儀を育てました。刀がなければお上に逆らっても打ち首で終わり。銃を持たない羊として生きる習慣は筋金入りです。
 かなり前のことと記憶しています。アメリカにホームステイしていた日本人高校生がハロウィンというお祭りの夜に隣家を訪ねて銃で殺されました。覚えていますか。たまたまその少年がわたしの母校の学生でしたので、若者がいとも簡単に命を奪われたことに大層ショックを受けました。ハロウィンは子供たちが魔女などに変装して隣近所に出掛けてtrick or treatと呪文を唱えながらお菓子をもらうお祭りです。私たちのの子供も楽しんでいました。
 高校生は郷に入れば郷に従うで、心を弾ませながら隣家を訪ねたが、殺されてしまった。親御さんの無念さがよく判ります。その後ご両親は、悲劇が繰り返されないよう、銃の規制を訴えるためにたびたびアメリカに出掛けられました。2007年4月16日、アメリカのバージニア工科大学での銃乱射による大量殺人事件も合法的に手に入れた銃を使っての惨劇でした。くだんの母親が、沈痛な面持ちで、銃が自由に持てる社会の恐ろしさを訴えるのをテレビで見ましました。マスコミは、チェイニー副大統領が銃保持のために活躍する映像や、全米ライフル協会が豊富な資金を使ってロビー活動をしていることを批判的な口調で報道しました。いつまで銃を野放しにしておくのだと。
 残念ながらアメリカが銃所持の規制を具体的に始めたとの報道に接しません。銃など恐ろしい凶器を身近に持たない私たちはどこでも銃が合法的に手に入る国が私たちの最大の同盟国と言われるとやりきれません。
リヴァイアサンと個人の権利
 民主主義と銃保持の権利との間にどのような関係があるのか皆目見当がつきません。国家の中で市民の持つ抵抗権についてホッブスがどのように考えていたかについては多くの論争があるようです(水田洋 リヴァイアサン 訳者序文)。ホッブスは市民の委譲できない権利について控えめながら断固とした調子で論じています。
 生命を奪おうと襲い掛かる人に対する抵抗、鎖による拘束、投獄に対する抵抗。生命を維持する手段として抵抗権を放置したり譲渡したりしてはならない。国家が個人の権利を侵害するようなことがあれば抵抗しなければならない、とはっきり述べています。リヴァイアサンの下でも自己の尊厳を守らなければならない。
 勿論ホッブスは国民主権の下での国家形成の理念を論じましたが、その基本となる社会契約を始めとした法治主義の実際は、ローマ法などを参考にしながら、後に続くロックやルソーのような啓蒙思想家たちによって理論的に深められ体系化されました。抵抗権についてもホッブスの考え方の延長線上で、一層明快にイェーリング(1818-1892)が論じています。
 「攻撃された権利を守ることは権利者の自分自身に対する義務であるばかりではなく、国家共同体に対する義務である。」、「外国から敬意を払われ、国内的に安定した国たらんとする国家にとって、国民の権利感覚にも増して貴重な、保護育成すべき宝はない。国民の権利感覚の涵養を図ることは、国民に対する政治教育の最高の、最も重要な課題の一つなのである。」、「専制者はつねに、私権=私法に介入し個人を痛めつけることから始めたのである。」(イェーリング権利のための闘争)。「個人の権利はその存在を国家に負うのではなく、自己の十全な力に負うのであり、自己の存在根拠を自分自身の裡に有する。」(イェーリング ローマ法の精神 解説から孫引き)。
 リヴァイアサンに主権を委託しても、もの言わぬ羊になるのではなく、自らの権利のために闘わなければならない。ホッブスにとっては民主主義と銃の保持は両立する。
 個人の権利を尊重するという考え方に基づいて銃の所持が許されている。主権者に対する無条件な服従を説いてファッシズムの端がけになったとのホッブス批判もあるようですが、国民一人ひとりが自立して正しい見解と将来に対する希望あるビジョンを持つことを求めています。彼は銃の保持も個人の抵抗権の一つと考えていたとわたしは推測します。
 主権者には従わなければならないが、同時に自己の尊厳を守るために闘わなければならない。直感的に従順であることと闘争は相容れない生き方のように感じますが、これが両立しているのが健全な姿なのでしょう。従順であると同時に自己の権利のための戦い続ける、この一見矛盾しているバランスの上に民主主義は成り立っています。
 謙遜であるけれど誇りに満ちていなければならない。信仰深いけれど、お任せではなくて自力で道を切り開いていかなければならない。謙遜のない自信は傲慢であり、上のものに対する眼差しを失うと自尊心ばかりが膨れ上がり、無謬であるとの錯覚を生み出す。快楽主義者であると同時に、社会が取り決める規範の奴隷でなければならない。個人主義者であると同時に、社会的人間であるとの自覚。ルールに従いながらイチローはイチロー、松阪は松阪の個性を出しています。作法に従ったらみんな同じようにお茶を飲むのではなくて、その人の個性が内から輝かなければならない。近代人は単細胞のような赤ん坊の生き方ではなくて、相反する行動規範の中で病的な人格乖離を起こさないで、成熟した多重人格者にならなければならない。かなりの知性が求められます。どちらかに偏らないよう自己を見張らなければならない。難しいですね。銃を取り上げられたためにお上に楯突かない生きる習慣を磨いてきた私たちも、銃を持って守らなければならない個の尊厳を確立する時が来ています。私たちには人格乖離をおこしているとしか思えない生き方が価値観を共有する欧米諸国の人たちの生きる流儀になっていることに気が付かなければならない。若いリーダーのように、多くの過ちを犯しておきながら悪いことをした覚えがない、悪いのは戦後レジーム(何の体制のことを言っているのでしょうか、意味不明)であると改憲を政治目標に掲げて、自由主義的経済改革を進めながら、教育内容、家族関係、結婚形態など些細なことから放送事業などあらゆることに国の関与を強めようとする支離滅裂な政策で美しい国を作ろうというのは、余りにもお粗末ではないでしょうか。近代はどういう世紀であるか理解していないように私には思えます。
 アメリカ憲法修正2条は言っています。「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、および携帯する権利は、これを犯してはならない。」。民主主義国家でありながら銃の保持を憲法で保障する。よく読むとチェイニーが自信満々に銃を掲げているのは憲法を正しく理解していないことが判って心配になりますが。ただ刀狩を正しいお上のお達しだと素直に信じている私たちとは異なる価値観を持っている人たちがいることだけは理解しておきたい。
 惨劇が起こるから銃を規制せよという私たちの良識ある忠告に耳を傾けないで、銃を持ち続けるのは、権利を守るためである。
 誤解がないように強調しておきますが、銃の所持は権利を守るために許されているだけです。権利を守るという大義ではなくて、動機が曖昧なまま大学構内で人を殺したり、市長候補者を射殺したり、家庭内のいざこざで、腹立ち紛れに若者を殺したりする攻撃用に使う銃が許されているのではない。自衛ではなくて攻撃に銃を使えば銃の所持が許されているアメリカでも厳しく罰せられるのは言うまでもありません。
 多分、子を亡くした母親の訴えはアメリカでも良く理解されたと思います。権利が侵害される時には泣き寝入りせよということか、なぜ正当の権利を行使する手段を持たないで生きていくことが出来るのだと彼らは今でも考えているのでしょう。このコンセンサスがあるために、母親の願いは実を結ばなかった。銃の所持を保証しながら、攻撃のために使う銃の規制に対する適切なアイディアを提供すれば新しい展開が見られたかもしれない。
 私たちは権威を守るための銃の使用も、腹立ち紛れの銃の使用も一緒に論じるので、同盟国のロジックが全く理解できないのだと思います。日本人は自分の権利が侵された時、どのように闘うのだろうか。守るべき自己の尊厳を持っていないのではないかと不思議がられるかもしれない。私たちはアメリカだけがおかしいと思い込んでいますが、アメリカが私たちをおかしいと思っていることに思い及ぶことが少ない。こういう複眼的な見方をホッブスから学ばなければなりません。
 お上に従うことを束縛としか感じませんが、お上に従うことが同時に自己を最も最大限に生かす生き方になる。アブラハムが主に従いながら、すべてをお任せではなく、一神教徒たちの父と呼ばれる豊かな歩みをしたように、想像を超える、かなり成熟した生き方があるということだけはよく肝に銘じておきたい。

by rr4546 | 2011-01-14 14:00 | 日本人論 | Comments(0)