医療に関する意見、日本人のあり方に関する意見


by rr4546
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民主党党首選挙

 暑い夏に、私たちの国の総理大臣を決める選挙が行われた。その間、サンデル教授の「これからの正義の話をしよう」、イーグルトン教授の「宗教とは何か」そしてシーザー教授の「反米の系譜学」を読んでいた。彼らの教養と知性そして知恵に深く感銘を受けた。知性と知恵はこれからも益々磨かれていくであろう。ついていかなくては。

 「一神教的思考様式を学ぶー創世記―」から、わが国の現在の政治状況を考えるために参考になるのではと、p152-158「民主主義」とp159-167「アテナイの民主制」を再録することとした。

第二章
アブラハム物語
(13)民主主義
 民主主義―和を以て貴しと為す
 民主主義体制と聞くと私たちは、色々な意見を調整して落としどころを見付け、波風をなるべく立てない政治システムをイメージするのではないでしょうか。横暴な者の意見を押さえ、少数意見も尊重して皆で仲良く暮らす。「和を以て貴しと為す」と言う古くからの私たちの生活スタイルと似た響きを持っていますね。民主的な人といえば、温厚な人のことを指しますからね。
 多くの人が共有する価値観である現代の民主主義が、果たして皆が納得して穏やかに暮らす政治を支える思想であるかどうかについて「アブラハムの信仰」の最後に考えておこうと思います。
 価値観が多様化した現代にあって、誰もが満足できるユートピアのような楽園があるとはとても思えません。直感的に、民主主義社会を生きていくためには、時には自分にとっても不都合な条件の下で生きることが強制される場合もあるに違いないと感じます。成熟した心がなければ民主主義社会からドロップし、自分の考えにしがみついてテロに走ってしまいそうです。民主主義は、すべての人が満足できるという口当たりのいいものではなく、むしろ個人の権利を抑圧することのある厄介な考え方のように思います。現代のように利害が複雑に絡み合って価値観も多様化しているときに、誰もが満足できる社会があると夢想することは現実離れしています。一人一人の価値観を尊重すれば、不思議なことですが「俺はこれが正しいと思う」、「私はあれがいいと思う」と意見は四分五裂の状態になり収拾がつかなくなる。私たちは自分の価値観を剥き出しにすることははしたないと感じますが、正しいと信じることを譲って間違っていると思うことに従うほど寛大とは思えません。価値観を共有する欧米社会の一員として責任を果たすためにも民主主義の思想を学んでおく必要があると思います。
 民主主義は異なった価値観がぶつかり合ったとき、社会にある秩序を与えるための方法で、一言で言えば哲人、君主あるいは独裁者が一方的に事を収める仕方とは違って、民一人一人が意見を出し合い多数決で出た結論を最優先して事をまとめる考え方と言っていいでしょう。一人ひとりが権力を所有することを前提とすれば、時には自分の権力が抑圧されることがある。自分の権力を譲り、他者の権力に無条件に従うことにたびたび出会います。自分の権利を他者に譲るためにはかなり成熟した知恵が求められます。私たちは自分を抑えて、自分を超える中枢の秩序に従うという考えに余り馴染みがありません。アブラハムの世界に疎いのです。
 現代の民主主義の考え方の背景に一神教的な考え方があることを紹介して、民主主義社会を生きていくために必要な知恵について考えてみます。民主主義社会では自己中心ではなくて他者中心で生きていかねばならない場合が多いですからね。

民主主義者とは?
 民主的な社会で居心地よく感ずる人は、視野が広く、自己主張をしっかり持っていますが、かといってベターな方法が提案されれば自己の主張に固執するのではなく譲ることができます。なかなかの人格者ですね。このような寛大な人はいないかもしれません。そのために法の縛りを入れる。視野が狭い上に、自分の意見がはっきりしていない、それでも問題がこじれると自分の主張に固執する私のようなものはなかなか民主的な社会には馴染めません。いやどう考えてもこうでしかない、相手が間違っているとしか思えない、問題がこじれたのはあの人のせいである、共同体の中で生活するときには、こういう思いに捕らわれる人は多いのではないでしょうか。
 ただ民主主義下ではこういう唯我独尊的な自己正当化は絶対に許されません。いや難しいことはすべて上の人にお任せ、誰とでもうまくやっていけるという人も民主主義的な仕組みに向かないかもしれない。そういう無原則な人間は存在しませんから、彼らはいざとなると梃子でも動かない可能性が高い。
 また、俺は誰よりも人のことを思っているので、俺の正しいと思う仕方だけを拠り所に生きていくという正義感に燃えすぎる他者概念が貧しい人も民主主義社会で生きていくのは適さないです。 相手の気持ちに対して配慮が足らなかった、独善的過ぎたと謙虚に思うことは、民主主義社会で生きるために最低のエチケットでしょう。しかしこれが難しいのです。民主主義社会を守っていくためにはすべての人が知性を豊かにして、謙虚な気持ちを持つことが求められます。

民主主義とアブラハムの信仰
 何を御託を並べている。わたしたちは世界にも誇れる民主主義国家を持っているではないかと叱られそうです。しかし民主主義社会で生きることはアブラハムの信仰生活と無縁ではない。一言で言えば、民主主義社会では無条件に神に従うように、自分の判断ではなく、自分を超える中枢的な制御、多数決で決められた権力に従うことが求められるのです。
 自分の判断と多数決で決められることがいつも一致しているとは限りません。一致していれば何も問題はありませんが、自分の考えと、多数決で決められる結論が違う場合は、アブラハムが非合理な神の命令に従うことのできた信仰の知恵と同じような知恵が私たちにも必要になってくると思います。自己と自己を超える者を知っており、しかも自己と自己を超える者の間は無限に広いことを良く知っていなければなりません。権力は自己だけにあるのではなくて、自己以外の権力も謙虚に認め、時には自己の権力を自己以外の権力に譲る懐の深さを持っていなければならない。こんな一神教的な窮屈な考えは選ばれた大和民族には不要である、我々は生まれながら寛大な民族である、とのブーイングが聞こえてきます。

主導権はオスかメスか?
 何か寄り道のようですがが、男と女とどちらが偉いかについて考えておきたいと思います。職場ではナースの愚痴を聞くのが仕事の一つになっています。男は勝手で我侭で自分本位で家事に協力しない。稼ぎを家に入れないで自分の遊びだけに使うという羨ましい生活をしている御仁もいるらしい。連れ合いの稼ぎを当てにしているのでしょう。子供だけで夫はいらない。多くの女性看護師の嘆きです。私たちの社会には家父長制度が良く機能していて男が威張る非民主的な家庭が多いのでしょうか。人間関係を上下関係で見る儒教の五倫五常の教えを基本として暮らしていますので、夫は根拠もなく家の中で威張っているのかもしれません。いやわたしは男の人についてくタイプですという人も意外に多い。一部の女性代議士や女性ジャーナリストも上下関係がはっきりしている社会を理想の社会と信じてジェンダーを拠りどころに生きることが大切であるとの復古的な考えを発信しています。現代の混迷を憂いている振りをした上での発言ですので厄介です。根拠もないのに女だからといって男に従順になれるなんて不可能ですね。しかし男は上で女は下という考えは根が深いようです。
 こういう時私は動物界では本来はメスがオスを完全に支配して生きていることを話すことにしています。よくテレビで動物を主人公にしたドキュメントを見ますが、ライオンの群れ、サルの群れにせよボスであるオスは威風堂々と言うのは少し大げさですが、オスはライオンであれば鬣があり、鬣のないメスに較べても見るからに百獣の王の風格を持っていて、仲間の中で君臨している感じがしますね。メスライオンはオスに寄り添っているように見える。ボスサルも真っ赤な尻を天に突き上げてメスの倍はありそうな体格で堂々としています。メスサルをボスと呼ぶことはない。この光景を幼い子供に見せて威張っているのはどちらかと聞けばオスと答えるでしょう。わたし達の価値観からすればどうみてもオスのほうが立派ですからね。
 しかしこの観察は、飾り立てている者が権力者であるという私たちの世界の価値観を根拠なしに転用した謬見であることをダーウインが明らかにしました。動物にとって子孫を残すことが最も重要な仕事です。異性から選ばれる個は子孫を残す可能性が高い。オスはメスに気に入られるために、大変な努力を重ねました。ライバルを追いやる体力を無理やり蓄えました。メスに魅力的に見える形質を進化させました。ライオンの鬣、孔雀の扇状に広げると美しい眼状斑を持つ見事な羽、鹿の角・・数え切れない程の見事なオスのシンボルがありますね。人であるお陰で取り得のない私でも配偶者を見つけることができました。動物の世界は、生存競争に勝ち残り、メスに選ばれる魅力を持つものだけが子孫を残せるのです。
 鬣、羽、角はオスが自らを飾り立てるために作り出すのではなく、メスから選ばれるために進化させた形質に過ぎない。メスあってのオスのシンボルです。その上メスが欲望しなければオスはいくら力んでも子孫を残すことはできない。思いを遂げられない。
 どちらが主導権を握って鬣を作り出すのでしょうか。わたし達が立派だと思う鬣はメスの気を引くためのオスのけなげな努力の賜物に過ぎない。現代の男は家で我侭放題で威張っているようですが動物界はメスがすべてを支配して子孫を代々引き継いでいます。
 人間社会も先史時代は子を産むことのできる女性を神として祭っていました。何かの役割をしているとは思われていたでしょうが男が子を直接生むわけではないですから、男は大切に扱われなかった。石器時代の神像をみればわかります。ユダヤ教を初めキリスト教、イスラームのような男性優位の神観が出来上がった理由については今回触れませんが、解説するのも恥ずかしいくらいの物語しかありません。
 自然界では女性が偉いのだと力説しても、納得いかないという表情で男は勝手で威張っていると愚痴は続きます。私が男性優位のシンボルのような雰囲気をしているからでしょう。こんな馬鹿話をしていると無生物から生物ができ、単性生殖で子孫を残すシステムが、あらゆる環境の変化に対応できる多様な形質を作り出すためにオスとメスに分かれた生殖が始まり、進化の頂点にいるわたし達は男性だ、女性だ、男性が偉い、女性がすべてを握っているなどと議論しているのが馬鹿らしくなってきます。男も女もこの世で生きていくためには男だけでも女だけでも生きていけない、「かたわ」ものであると言うのが本当のところではないでしょうか。オスとメスと分かれてからどちらも「かたわ」ものになった。
 すべての人が掛け替えのない個として尊重し合わなければこの世界は成り立たない。等しく権利を持っているので、その権利を守るために考え出されたのが民主主義という思想です。自分の権利だけ、あるいは他者の権利だけと差別をつける社会は必ず綻びを生み崩壊します。自分の権利も、他者の権利も尊重するために、人が個として立つためには、不思議なことに中枢的な制御の役割を果たしている個を超えるものに対する眼差しと、個の抱えている限界に対する謙虚さが必要です。それなしでは他者の権利を尊重する度量を持てない。人以外にはみられない知性です。民主主義の背景に一神教的な考え方があるのです。難しいですね。差別をつけるのは簡単ですが、男女が平等であると得心するためにはかなりの知性が求められるでしょう。
 民主主義は男だから女だからどちらかが優位で発言権が強いという根拠のないことに全く価値を置かない人と人との契約からなる制度です。動物の世界ではメスが優位で、現代人は男が優位ですが、民主主義は同じ生物の中での優劣を論ずるのではなくて、すべて等しい生き物が、しかも利害が対立したときどのように生きていくかという問いを解決するために作り出された政治システムです。
 神政性、貴族性、寡頭制、独裁制、全体主義体制とは全く価値観を異にする法治社会に住んでいるのを自覚していくことは世界市民として生きていくためにどうしても必要だと思います。わたし達は本当に民主主義社会の中で生きていく知性を持っているかどうか真面目に吟味しなければなりません。訳の判らない法令違反や独善が許される医療の現場を見ていると心配になってきます。もし足らないものがあれば、反知性的で反理性的な古来の情緒の世界に逃げ込むのではなくてそれを育てる努力が必要だと思います。人にしかない知性を磨かねばなりません。
 アブラハムの神との契約は現代の法治社会の理念を基礎付けており、異質な他者と共同作業するためには、そのあらましを理解しないと、いくら現代に生きていても身の丈の合う背広を着ている心地がしないでいつまでも落ち着かないと思います。
 私の説明はいかにも舌足らずです。現代の民主主義の精神を基礎付けたホッブスと民主主義社会がなぜヒトラーや国家神道の支配する国家を生み出すかについて触れて、アブラハムの物語を終えたいと思います。

(14)アテナイの民主制
 民主主義というと、誰もが等しく満足できる統治形態を支える有り難い思想で、どの時代にも有用であると思いがちです。しかし、我が国に民主主義を基本とする国ができたのは太平洋戦争後で、今から半世紀前のことにすぎません。歴史を振り返ると、貴族制、武家制、封建制そして立憲君主制の統治があり、明治時代に漸く、住民を一人一人国民とする国民国家の原初的な形ができあがり、日本は近代国家としての歩みを始めました。その後、無理やり結ばされた不平等条約の改正のために欧米諸国の制度や法を取り入れ脱亜入欧を急ぎました。
 そこがわたしたちの優れたところですが鎖国から開国した後、丁髷や脇差の刀を捨てて、短期間で欧米列強の産業レベル・軍事レベルに、アジア諸国の中で最も早く追いつきました。プロイセンの憲法を参考にして立憲君主国を作りました。清国、ロシアとの戦争に勝利し、一層軍事力増強に邁進し、アメリカとことを構え、呆気なく敗れました。多くをGHQからの指示に従って国政に関する権威と権力が国民にあるとする憲法を制定して民主主義国家を作りました。
 現在は他国が羨ましがる平和で豊かな生活を享受する民主主義国家の優等生です。ただ千数百年の歩みの中で民主制を拠り所として立っているのは本当に短い間であったことは知っておくべきでしょう。アテナイの約200年間の民主制の歴史にも及びません。短期間に民主主義の理念を血とし肉としていればいいのですが、他国に押し付けられたお陰で、私たちはその内容を十分理解しないまま民主主義国家を作って暮らしている可能性も否定できません。
 民主主義は主権を国民一人一人が持って、自由と平等を享受し個人主義を守り育てる考え方で、民主主義の下で生きていくためには一人一人が自由や平等を理解する高い知性を持つことが求められます。個の尊厳という人権意識をわたし達の先輩は持っていませんでした。自由と身勝手とは違いますし、個人主義と利己主義は違います。この区別を知らなければ民主主義国の一員とは言えません。

国家の品格
 藤原正彦氏は「国家の品格」の中で「『自由』という名の化け物のおかげで、日本古来の道徳や、日本人が長年の間培ってきた伝統的な形というものが、傷つけられてしまいました」と先進欧米諸国の人たちが最も大切にし、洗練し続けている自由を「自由を大切にすれば、援助交際もオーケーとなる」と批判し、返す刀で「成熟した判断ができない国民による民主主義はヒットラーを生み、熱狂する国民に支持される民主主義国家対民主主義国家の戦争を生む。冷徹なる事実を言ってしまうと、『国民は永遠に成熟しない』」(国家の品格)と自由と民主主義の欠陥を指摘して多くの人の共感を得ました。
 「民主主義思想は欧米人の作り上げた『フィクション』である」と見事なキャッチコピーも考え出しました。自由も民主主義もわが国の品格を貶める価値観であると、氏の民主主義嫌いはてっていしています。
 我が国の政治家はアメリカに行くと自由・平等そして民主主義の価値観を共有する最も信頼する同盟国と言う枕詞でアメリカに恭順の意を表すのを習慣としています。本心なのかそうでないのか。大物たちの見解の不一致を見ていると、わたし達は民主主義を大和民族には無関係な外来思想と思っているか、その本質を何も理解しないで大切なものだと口だけで言って、別なことを企んでいるのか、よく判らなくなります。若者は目を白黒させているでしょう。

アテナイの民主制
 民主政治は紀元前5,4世紀頃、ギリシャで最も繁栄していたポリスであるアテナイで始まりました。神政制、一人の人間の支配である専制、エリートによる支配である貴族制も他のポリスでは見られましたし、帝国も近隣に存在していました。
 アテナイの人たちは人民(デモス)による民主政治(デモクラシー)を統治方法として選択しました。デモスは教育を受けた上層階級の人、農民、小売商、職人たちからなり、彼らは民会に出席して戦争や平和、条約、財政、立法、公共事業等すべての共同体の活動を、出席者の過半数によって定め国を運営しました。直接民主制を採用したアテナイはほぼ200年にわたりギリシャ世界で最も繁栄し、最も強力で、最も安定し、最も平和で、そして文化的に群を抜いて豊かな国でした。
 プラトンのような哲学者達はデモクラシーを衆愚政治と批判して哲人政治を主張し続けました。しかし彼らは「自分自身の利益ではない利益を考量し、要求が相対立する場合に、自分の私的な偏見以外の規範によって導かれること、またあらゆる場合にその存在理由として共同善をめざしているような原理や準則を適用することを要求された・・・・」(代議政治論)という知性を磨いて民主制を維持した、とジョン・スチュアート・ミルは分析しています。
 現代では、われわれだけではなく欧米諸国の人たちも最も優れた統治形態であると信じている民主制は、今からおおよそ2500年前の紀元前508年にアテナイで始まっていたのです。しかしこれほど評価の高い、信頼されている民主制も紀元前322年にアレクサンドロス大王の死後一年後、新しい王に率いられたマケドニア王国にアテナイが編入されると同時にあっけなく滅びました。よい統治方法であるはずの民主制はその後凡そ2000年の間、近代民主主義思想として蘇るまで埋もれていたのです。
 アテナイの民主制が発展しなかったのは、官僚機構や政党制度の欠如などが挙げられますが、民主主義の体系的な理論が不十分であったために、現代まで民主制がどの地域でも採用されなかったのだと思います。
 民主制は産業革命後の個々の人権が尊重されることを求める自立した市民階級の出現がなければ最善の制度として人々に受け入れられる素地がなかったし、維持する力がどこからも供給されなかったのではないでしょうか。神の権威を借りないで人々が国を統治する理論が必要です。
 プラトンが軽蔑した衆愚が権力を持つより、教皇や帝王神権説で担保された絶対君主のような選ばれた人たちが権力を持つほうが社会は安定して発展したのです。この歩みしかなかったかどうかについて議論の余地があるでしょうが、専制君主の支配する帝国や教皇の支配する神政政治が、現代の民主制が導入されるまで重宝がられ機能したことを歴史は物語っています。
 民主制はアテナイ人が発見したようにデモスが権力を持ち多数決でことを決める単純な方法といってよいでしょう。一部の人が権力を持つのではなく、市民一人一人が権力を持つ。デモスが確立した個や個の尊厳について十分自覚できなければ、デモスは民主制を担う権利はない。近代民主主義国家を作ったアメリカ人を「ほとんどすべての旅人が感銘をうけるのは、あらゆるアメリカ人が、ある意味で愛国者であるとともに、開発された知性の持ち主であるという事実である。これらの資質とアメリカ人の民主政治制度との間の関連がいかに密接であるか。教育ある人びとの思想、趣味および感情がいかにひろくいきわたっているか。・・・」と1861年にミルはエッセイの中で書いています。
 デモスが権力を握るのですから、デモスは君主や教皇以上に賢明でなくてはならない。民主主義の下で生きるためには一人一人が知性を磨かなければならないことはよく理解しておかねばなりません。独立直後のアメリカ人は当時最高の洗練された知性を持っていました。いや持っていなければ、民主主義国家アメリカは誕生しなかったでしょう。特権階級だけではなく、身分の高い人も低い人も、お金持ちも貧乏人も等しくそれぞれ多様な意見を出し合って、最もよい方法を探し出して国の進む方向を決めていったのです。
 個の尊厳だけではなく、共同体に対して個はどのような関係を持ちどのような務めを果たすべきかについての懐深い知恵も必要です。それがなければ現代の間接民主主義国家は成立しない。これらを理論化するのは古代人アテナイには荷が重すぎたと思います。その後の時代の矛盾に鍛えられた知性の成熟を待たなければならなかった。
 その上多くの場所でしかも異なった仕方で富を生み出す産業社会で生活し、力を持つようになったデモスにとっては、教皇制、君主制、封建制そして全体主義体制より民主制は相性がいい、いや彼らにとってこの制度しかないように思います。政治学にはまったく素人のわたしの直感に過ぎませんが、富を蓄えた一人一人が権力を持つようになり、民主制は着実に発展していきました。
 藤原正彦氏は自由や民主主義に対して憎しみに近い感情を抱いておられますが、先生が現代をどのように理解しておられるかについて聞いてみたい気がします。これだけ価値観が多様化して、経済的格差も複雑になっている上に、自己主張が自由にできる環境を持つ人たちからなる社会を、封建時代に有効であった特権階級の心得である武士道精神だけで維持して発展させることができると本当に信じておられるかどうかも聞かなければなりません。
 先生は結局、民主主義や自由を尊重する欧米諸国を憎むような言説を繰り返しながら、実は私たちの愚かさに手を焼いて、いつまでバカを言っているのだ、お前たちのようなバカが判ったような口を聞くのではない。「わたしのように考えて生きていけば世の中うまくいく」と根拠もなしに自分が選ばれた民だと信じて、あれやこれやと御託を述べておられるだけのような気がします。なぜこれほどのエリート意識を持つことができるかについてはわたしの想像を超えています。
 ただ多くの文化人も、アメリカの横柄さと狭量さを心から憎んで、アメリカさえ私たちのように良識を持って振舞ってくれれば世界が丸く収まるという実に単純な主張を繰り返しています。この主張は社会を何も変えませんが、心地よく響くので欲求不満には一時的に効くかもしれません。
 他者を貶めて自分の考えているようにすれば何事もうまくいくと主張する人は、アブラハムの対極にいる自己絶対化の悪弊から開放されていない非民主的な特権意識を持つ時代遅れな人だと思います。人を愛する喜びを知らない人だと思います。こんな非生産的な悪口に時間をつぶさないで、ミルが勧めるように、民主主義に親しむためには「国民全体を教育して、知的、感情的、道徳的な潜在能力を最大限発揮できるように仕向け、真の共同社会に自由かつ積極的に参加させることを目指す」ことに努力を積み重ねることが未来志向の国を作るための喫緊の課題だと思います。わたし達は人類が今まで経験をしたことがない難問を抱えています。
 このような複雑な要因から起こる困難に直面したことがない昔の人の知恵に耳を傾けても得ることは少ないでしょう。惻隠の情の情緒も武士道も私たちの誇る素晴らしい精神世界ですが、なぜそのような大切なものが時代に対応できず隅に追いやられたかについての謙虚な考察が必要だと思います。
 近代民主主義をもっとも根本的なところで理論化したとわたしが考えるホッブスの考え方を紹介しましょう。なぜアブラハムの信仰のところで大層な寄り道をして民主主義を語るのか判ってもらえばよいのですが。封建制にも、国家神道に基づく全体主義にも、いわんや軍国主義にもこれからの若者を託せる体制があるように思えないからです。

by rr4546 | 2010-09-17 12:22 | 日本人論 | Comments(0)