よき高齢社会のために No.33 介護は介護のプロへ
2010年 06月 18日
高齢になって、認知症や脳卒中による半身不随を患うと、他人の助けなしでは生活できなくなる。ご家族のご苦労は大変なものであろう。認知症の連れ合いを抱えて精根尽きたと、涙ながらに闘病生活を語る俳優や、認知症の母親を抱えて、疲れからであろう、眠剤を飲み過ぎて救急車で入院したジャズ歌手などを思い出す。いや認知症の母親の看病に疲れて、命を絶った女優もいた。嫌なことであるが、認知症の連れ合いを看病したと、その苦労話を色々なところで話されてお忙しい方もおられる。逆に徘徊や不穏で静かな日常が侵され、将来を悲観して、望まないのに親に手をかけてしまったという悲しいケースもあった。
認知症や半身不随の方を多く見る機会の多い私は、そのような話を聞くたびに、どうしてハンディキャップを持つ高齢者を自分一人、いや家族だけで背負おうとされるのか不思議でならない。認知症や半身不随などの身体障害を持つ人を、医療や介護に素人の方がお世話できると思われているのであろうか。介護を必要とする人を日常的に見ていると不可能だと思う。介護の専門家でなければできないことばかりである。
食事介助をはじめ、口腔ケア、身体清拭、そして排泄介助と贅沢を言うわけではないが、毎日を生きていくためにやることは最低限だけでも驚くほど多い。その上、介助する方も、される方も我儘をたしなめているが、人間の弱さであろう、つい些細なことでいがみ合ってしまう。母を虐待に近い調子で扱っていたと、私たちがお預かりして、落ち着かれてから、しみじみと告白される方は多い。身内に世話をしてくれる女手があるから、安心などとお互いに元気なときには語り合っているが、手がかかるような状況が生まれると、家の中は修羅場になるようである。丁度、わが子が勉強に力を入れないと、逆上して、他人の子供を叱るより厳しい態度で接してしまうのに似ているのかもしれない。身内に対するほうが感情的になってしまう。
一人で日常生活を送れない病に冒されたらどうするのがいいのであろうか。答えは簡単である。介護は介護のプロに任せればよい。
家では我儘を言っていた人が、若い介護士の世話になるとみるみる精神的に安定し、家ではできないと思われたことができるようになる。明るくなられるのが一番うれしい。人間は社会的生き物なのであろう。10人に一人くらいは、どうしても集団生活に馴染めなくて、落ち込まれるが、経験的にほとんどの人が、若い介護士の介護に素直に従い、集団生活に馴染み、穏やかになられる。家人が見舞いに来られると、こんな幸せそうな母を見るのは久し振りですと感謝されることも多い。施設に慣れて、親しい仲間ができると、見舞いに来た家人に対して、「気を付けてお帰り」と施設を家と錯覚されるような発言もされるようになる。
身内の高齢者を施設に預けるのは、薄情な感じを持たれる方も多いかもしれない。しかし実際は、ハンディキャップを持つ人が自宅で闘病生活される方が遥かに、患者に不幸な場合が多いと思う。自宅で認知症の妻を見ていたと涙ながらに語る姿を見ていると、施設に入れて、色々な刺激を受けていた方が遥かに穏やかに生活できたのにとしみじみと思う。多くの認知症患者は集団生活に良く馴染まれるのが特徴である。自宅で孤立して介護を受ける方が良いのか、施設でプロに介護を受けて生活する方が良いのか。素人考えだと、身近に見てあげる方がいいと思うが、実体験からいえば、薄情のような感じがするが、介護のプロのもとで、集団生活する方が遥かに患者にとって幸せのように私は思う。認知障害の進行も明らかに遅らせる。
若い介護士の働きをみていると、介護にもプロがいるということをしみじみと思う。介護士たちは介護だけに時間を費やしているのではない。患者とゲームをしたり、嫌がる患者を散歩に連れだしたり、少々熱が出ていようと皆と食事をさせたりと、患者に精神的あるいは身体的な刺激を与えるためにいろいろ工夫している。軽い体操を始め、園芸、カラオケ、回想と脳活性化に役立つことなら何でも取り組んでいる。嚥下障害のある患者の食事介助や、排泄介助をみていると、よくここまでできるものだと感動することばかりである。介護施設はハンディキャップを持つ人の最善な居場所なのではないだろうか。
実際、入所しないで、デイケアに来られる高齢者も、当初は嫌がる方が多いが、話し相手ができたり、若い介護士のエネルギーに煽られて、カラオケをしたり、リハビリに積極的に取り組んだりして段々、元気になられる。家族の方は、デイケアの有難みとその有用性を実感しておられるのではないだろうか。
ハンディキャップを持つ人のためのよき社会を作るためには、介護のプロを一人でも多く育て、介護に携わる人たちに敬意を払う、社会的合意を作り上げることが一番重要だと思う。介護は誰でもができると考えがちであるが、それは実態を言い当てていない。医療行為が誰でもできる分野でないと同じである。どうして介護も医療と同じように、特別なスキルが求められる分野だと私たちは考えないのだろうか。
プロの介護士たちを育てるために、国レベルから市民一人一人のレベルで真剣に取り組む必要があるであろう。介護のプロがいなければ、高齢社会は地獄絵のごとくになるであろう。介護にまつわる苦労話で時間を潰しているほど、私たちに残された時間はないと思う。不十分な介護をやって、慰めあっていても何も生み出さない。
私の働いている施設の創立10周年記念行事が、先日行われた。その際の、私の挨拶を載せておく。介護の未来を語ったつもりである。
認知症や半身不随の方を多く見る機会の多い私は、そのような話を聞くたびに、どうしてハンディキャップを持つ高齢者を自分一人、いや家族だけで背負おうとされるのか不思議でならない。認知症や半身不随などの身体障害を持つ人を、医療や介護に素人の方がお世話できると思われているのであろうか。介護を必要とする人を日常的に見ていると不可能だと思う。介護の専門家でなければできないことばかりである。
食事介助をはじめ、口腔ケア、身体清拭、そして排泄介助と贅沢を言うわけではないが、毎日を生きていくためにやることは最低限だけでも驚くほど多い。その上、介助する方も、される方も我儘をたしなめているが、人間の弱さであろう、つい些細なことでいがみ合ってしまう。母を虐待に近い調子で扱っていたと、私たちがお預かりして、落ち着かれてから、しみじみと告白される方は多い。身内に世話をしてくれる女手があるから、安心などとお互いに元気なときには語り合っているが、手がかかるような状況が生まれると、家の中は修羅場になるようである。丁度、わが子が勉強に力を入れないと、逆上して、他人の子供を叱るより厳しい態度で接してしまうのに似ているのかもしれない。身内に対するほうが感情的になってしまう。
一人で日常生活を送れない病に冒されたらどうするのがいいのであろうか。答えは簡単である。介護は介護のプロに任せればよい。
家では我儘を言っていた人が、若い介護士の世話になるとみるみる精神的に安定し、家ではできないと思われたことができるようになる。明るくなられるのが一番うれしい。人間は社会的生き物なのであろう。10人に一人くらいは、どうしても集団生活に馴染めなくて、落ち込まれるが、経験的にほとんどの人が、若い介護士の介護に素直に従い、集団生活に馴染み、穏やかになられる。家人が見舞いに来られると、こんな幸せそうな母を見るのは久し振りですと感謝されることも多い。施設に慣れて、親しい仲間ができると、見舞いに来た家人に対して、「気を付けてお帰り」と施設を家と錯覚されるような発言もされるようになる。
身内の高齢者を施設に預けるのは、薄情な感じを持たれる方も多いかもしれない。しかし実際は、ハンディキャップを持つ人が自宅で闘病生活される方が遥かに、患者に不幸な場合が多いと思う。自宅で認知症の妻を見ていたと涙ながらに語る姿を見ていると、施設に入れて、色々な刺激を受けていた方が遥かに穏やかに生活できたのにとしみじみと思う。多くの認知症患者は集団生活に良く馴染まれるのが特徴である。自宅で孤立して介護を受ける方が良いのか、施設でプロに介護を受けて生活する方が良いのか。素人考えだと、身近に見てあげる方がいいと思うが、実体験からいえば、薄情のような感じがするが、介護のプロのもとで、集団生活する方が遥かに患者にとって幸せのように私は思う。認知障害の進行も明らかに遅らせる。
若い介護士の働きをみていると、介護にもプロがいるということをしみじみと思う。介護士たちは介護だけに時間を費やしているのではない。患者とゲームをしたり、嫌がる患者を散歩に連れだしたり、少々熱が出ていようと皆と食事をさせたりと、患者に精神的あるいは身体的な刺激を与えるためにいろいろ工夫している。軽い体操を始め、園芸、カラオケ、回想と脳活性化に役立つことなら何でも取り組んでいる。嚥下障害のある患者の食事介助や、排泄介助をみていると、よくここまでできるものだと感動することばかりである。介護施設はハンディキャップを持つ人の最善な居場所なのではないだろうか。
実際、入所しないで、デイケアに来られる高齢者も、当初は嫌がる方が多いが、話し相手ができたり、若い介護士のエネルギーに煽られて、カラオケをしたり、リハビリに積極的に取り組んだりして段々、元気になられる。家族の方は、デイケアの有難みとその有用性を実感しておられるのではないだろうか。
ハンディキャップを持つ人のためのよき社会を作るためには、介護のプロを一人でも多く育て、介護に携わる人たちに敬意を払う、社会的合意を作り上げることが一番重要だと思う。介護は誰でもができると考えがちであるが、それは実態を言い当てていない。医療行為が誰でもできる分野でないと同じである。どうして介護も医療と同じように、特別なスキルが求められる分野だと私たちは考えないのだろうか。
プロの介護士たちを育てるために、国レベルから市民一人一人のレベルで真剣に取り組む必要があるであろう。介護のプロがいなければ、高齢社会は地獄絵のごとくになるであろう。介護にまつわる苦労話で時間を潰しているほど、私たちに残された時間はないと思う。不十分な介護をやって、慰めあっていても何も生み出さない。
私の働いている施設の創立10周年記念行事が、先日行われた。その際の、私の挨拶を載せておく。介護の未来を語ったつもりである。
by rr4546
| 2010-06-18 14:35
| 医療関係
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