先日、万波誠医師らが実施している病気腎移植の研究成果の発表が、第44回日本臨床腎移植学会から不採用とされたとの新聞報道に接した。どうして先進的な試みが医学会で議論されないのだろうか。残念である。以前、病気腎移植に触れたことを思い出した。
何故人を殺してはいけないのか?
大分以前のことで詳しい経緯は忘れましたが、子供のテレビ討論会でごく普通の少年が「何故人を殺してはいけないのか」と問い掛けました。突拍子もない問いに対して女の子が中心だったと思いますが「自分が殺されたら悲しいではないか」、「殺された家族の人たちの苦しみを想像しなさい」、「殺人は罪である」等とよく理解できる言い分で猛烈に反論して、議論は白熱しました。非難する声が優勢でした。しかし少年は何一つ得心できないという表情のままでした。
その後、少年の問いに結構多くの知識人が反応しました。本を書いた人もいたようです。内容については何も思い出せません。今浮かんでくるのは、人気のあったテレビキャスターT氏が「国家は合法的に殺人をしているしね・・・」と、少年の言うのはもっともではないかというニュアンスでコメントしていたことくらい。知恵遅れの子を作曲家に育てたことを誇りにしているノーベル文学賞受賞者O氏もエッセイか何かの中で「人間以下の質問です」という言い方でやんわりと切り捨てていました。この問い掛けをした少年は、今は若者になっているでしょうが、いまだに何故人を殺してはいけないのだろうかと自問しているように思います。
なぜ人を殺してはならないのか大人が論ずるような高尚で哲学的なテーマとは思いませんが、この問いに関する記事が結構マスコミを賑わせたのは、私たちのような生き方をしているものにとっては、真正面から反論できない何かが少年の問いかけにあるのでしょう。
この珍現象はアブラハムとは全く異なる私たちの持っている人間観が深く関係しているように思います。アブラハムは自分と神の力とで生きていると了解しているのに反して、神を持たない私たちは自分の知性と理性にだけ頼って生きていくしかないと考えています。アブラハムは自我を批判的に眺めるもう一つの視点を持っていますが、私たちは自我の中の自問自答でしか自我を批判できない。自我を完全に否定できるものと、できないものの違いのような気がします。
アブラハムは不可知な他者に対して従順になる謙虚さを持っていますが、私たちは自我の思いを第一にして不可知な他者を抑圧し排除する。いつも主役の立場でいないと落ち着かない。アブラハムは神中心主義であるが、私たちは望むと望まないに拘わらず自己中心主義である。神の思いは、自分の思いと離れていると考えるか、近いと考えるかの違いです。ともあれ生きる基準を訳けの判らない他者に置くのではなく、自分に置こうとします。アブラハムのようにいるかいないかも定かではない、見えざる神に生きる基準を置くことは出来ません。
自分の思いでこの世を生きていくしかないと考えるものが、もし人を殺したいと欲望した時一体どういうことが起こるのでしょうか。このような邪悪で破壊的な欲望を持つことは稀でしょうが、人間のことですからどんな欲望もありだと思います。スカートの中を覗き込むことから、人間を切り刻むことまで、いやカラマーゾフ一族のように、物欲と淫蕩さと名誉と権力欲に駆られて愚かな振る舞いに及ぶ事件は現在、日常的に見られるようになりました。偽装、捏造も私たちの得意とするところです。自分のことを冷静に振り返ればよく理解できるのではないでしょうか。
そして少年は人を殺してはいけない理由を見失いました。見付けることができませんでした。
私の答えは簡単です。人間は自分の欲望だけでこの世に存在しているのではない。今まで繰り返してきましたが、人は自分の描く秩序と、関与できないもう一つの大きな秩序、遺伝子の力、種の圧力あるいは神のご計画の大きな秩序の二つの秩序の下で生きている。二重の拘束を受けています。
殺していいかどうかと問い掛けられれば、人は自分の倫理規範と同時に、共同体の一員としての倫理規範の二重の拘束を受けていることを説明すれば、正解が得られるのではないでしょうか。人間は小さい自分の倫理規範だけではなく、共同体の倫理規範も大切にしなければならない。いや優先しなければならない。アブラハムが自分ではなく神の秩序に従順だったように。個の尊重より公を重視せよ(改正教育基本法)という最近の風潮とは違ったことを言っている積りですが・・・・。アブラハムは草・木が自我ー草・木は自我もないかーに拘るのではなくて、大きな自然の秩序の下で当たり前に生きているように、すべて生きとし生きるものは大きな秩序を優先して生きるのが生きる道理であることをよく知っていました。人に譲ると言いながら、自分の考えることにしかより頼まない屈折した生き方とは違う。無理をしていないのです。
友人の弁護士T氏に「君の後輩でもあるU教授がたびたび手鏡でスカートの中を覗いて逮捕されているが、あんなことが罪になるの?趣味が悪いだけと違うの?」と尋ねてみたことがありました。私にはどうしてそういう衝動に駆られるのか全く理解できませんが、覗かれた本人は知らないわけですし、やる方も隠れて手鏡を悪用するだけだし・・・。しかし即座に「迷惑防止条例」で犯罪に決っていると教えてくれました。U教授も少年と同じように自我だけが肥大化させて、自我だけを拠りどころとして生きていけると錯覚し本来尊重すべき共同体の倫理規範を忘れてしまったのでしょう。生きている道理を見失ったのです。アブラハムが自覚したように、関与できないというのか、制御できない大きな秩序の中で人は生きており、人はその秩序に従うほかないことをしっかりと学ばなければなりません。
私たちは自我と大きな秩序の二重の拘束に気が付いた時、アブラハムのように即座に支配できない大きな秩序に従うことを選択しないで、どちらに従うか自問自答しているうちに、好むと好まざるに拘わらず、小さい自我、欲望に従って生きてしまうのでしょう。私たちは見えない上に、存在するかどうか判然としない、しかも何を語っているか聞けないものに従うという思考様式や行動様式を持っていません。
しかし人は自己の倫理規範と共同体の倫理規範の二つの拘束の下で生きていることに正しい洞察を持たなければなりません。
病気腎移植事件も同じことを語っているように思います。医療に携わりながら人工透析をしている人がこんなに健常な腎臓を望んでいることを知りませんでした。脳障害や心臓疾患、いやどんな病気にせよ、意識を失い意思表示ができない状況が生まれれば、医師がどんな楽観的な見通しを言おうとも、蘇生処置を望まない、自然の成り行きに任せて欲しいと私は遺言していますが、腎臓が使えるようであれば提供するということを付け加えました。
M医師は自分が正しいと信じることだけに基準を置き過ぎて、共同体の合意を得ることに対して配慮を欠いている。自分を信頼しすぎて、大きな秩序に思いを馳せないというのは私たちの共通の弱点を持っているように思います。M医師も万能ではありません。一人で善意に燃えて頑張り過ぎて、共同体の倫理規範から見ると問題があると考えられる過ちをしていたのかもしれない。少年と頭の構造が同じような気がします。
過ちを最小化するためにも、人はダブルバインドの下で生きており、いつも自分より他者に耳を傾けるべきであるという謙虚さが求められていると思います。社会から意見を求めるべきでした。
神や仏になれると信じているもの(麻原彰晃のようなオウム真理教の信者、本覚思想原理主義者等)や真理や道徳や客観的価値を信じないニヒリスト(イワン・カラマーゾフ等)はどんな倫理にも制約されません。すべてが許されています。U教授や少年はどちらに属する人たちなのでしょうか。いや私たちは少年を充分批判できなかったのですから、正気でありながら、狂信者や虚無主義者のように、欲望だけしか生きる拠り所がないのかもしれない。支配できない不可知な他者に耳を傾ける習慣を育てなければならないように思います。唯我独尊では新しい世紀は生きていけない。
共同体の中の規範を忘れて個の規範だけに頼る習慣を持っていますので、柔道、剣道そして相撲という個のスポーツを国技として育ててきたのでしょう。色々制約の多い集団スポーツを楽しむことをしなかった。現在は自分たちが作り上げた積りになって、集団スポーツである、野球、サッカー、ラグビーを楽しみますが。将棋や碁も同じことでしょう。個の能力を最大限に発揮して戦うのを喜びとしています。縛られるのが嫌いです。
個人主義が異様に発達して、弱肉強食が貫徹していると思われる恐ろしい国が、自分のやりたい事をがんじがらめに縛る集団スポーツである野球やアメリカンフットボールを国技としていることの意味を過小評価してはならないと思います。アメリカンフットボールなどはユダヤ人が考えたに違いない、と思えるオフェンスやデフェンスの役割分担を事細かに決める規範だらけのスポーツで、個人の能力を信じて戦いたいものには親しみ難い。攻撃も一人で突進できるのは稀です。フォーメイションといって多くのものがある指示の下で力を合わせて敵陣に攻めてやっとのことで得点できます。神の支配の下で皆が力を合わせて生きていくのをイメージして作り出したと思います。お陰で受験勉強の得意なものが入る大学でも一部リーグで活躍できるらしい。(一神教的思考様式を学ぶー創世記― 創世記 第2章 アブラハム物語 4.二重の拘束 何故人を殺していけないのか?(p90-94))
続く
病気腎移植 Ⅱ
何故人を殺してはいけないのか?
大分以前のことで詳しい経緯は忘れましたが、子供のテレビ討論会でごく普通の少年が「何故人を殺してはいけないのか」と問い掛けました。突拍子もない問いに対して女の子が中心だったと思いますが「自分が殺されたら悲しいではないか」、「殺された家族の人たちの苦しみを想像しなさい」、「殺人は罪である」等とよく理解できる言い分で猛烈に反論して、議論は白熱しました。非難する声が優勢でした。しかし少年は何一つ得心できないという表情のままでした。
その後、少年の問いに結構多くの知識人が反応しました。本を書いた人もいたようです。内容については何も思い出せません。今浮かんでくるのは、人気のあったテレビキャスターT氏が「国家は合法的に殺人をしているしね・・・」と、少年の言うのはもっともではないかというニュアンスでコメントしていたことくらい。知恵遅れの子を作曲家に育てたことを誇りにしているノーベル文学賞受賞者O氏もエッセイか何かの中で「人間以下の質問です」という言い方でやんわりと切り捨てていました。この問い掛けをした少年は、今は若者になっているでしょうが、いまだに何故人を殺してはいけないのだろうかと自問しているように思います。
なぜ人を殺してはならないのか大人が論ずるような高尚で哲学的なテーマとは思いませんが、この問いに関する記事が結構マスコミを賑わせたのは、私たちのような生き方をしているものにとっては、真正面から反論できない何かが少年の問いかけにあるのでしょう。
この珍現象はアブラハムとは全く異なる私たちの持っている人間観が深く関係しているように思います。アブラハムは自分と神の力とで生きていると了解しているのに反して、神を持たない私たちは自分の知性と理性にだけ頼って生きていくしかないと考えています。アブラハムは自我を批判的に眺めるもう一つの視点を持っていますが、私たちは自我の中の自問自答でしか自我を批判できない。自我を完全に否定できるものと、できないものの違いのような気がします。
アブラハムは不可知な他者に対して従順になる謙虚さを持っていますが、私たちは自我の思いを第一にして不可知な他者を抑圧し排除する。いつも主役の立場でいないと落ち着かない。アブラハムは神中心主義であるが、私たちは望むと望まないに拘わらず自己中心主義である。神の思いは、自分の思いと離れていると考えるか、近いと考えるかの違いです。ともあれ生きる基準を訳けの判らない他者に置くのではなく、自分に置こうとします。アブラハムのようにいるかいないかも定かではない、見えざる神に生きる基準を置くことは出来ません。
自分の思いでこの世を生きていくしかないと考えるものが、もし人を殺したいと欲望した時一体どういうことが起こるのでしょうか。このような邪悪で破壊的な欲望を持つことは稀でしょうが、人間のことですからどんな欲望もありだと思います。スカートの中を覗き込むことから、人間を切り刻むことまで、いやカラマーゾフ一族のように、物欲と淫蕩さと名誉と権力欲に駆られて愚かな振る舞いに及ぶ事件は現在、日常的に見られるようになりました。偽装、捏造も私たちの得意とするところです。自分のことを冷静に振り返ればよく理解できるのではないでしょうか。
そして少年は人を殺してはいけない理由を見失いました。見付けることができませんでした。
私の答えは簡単です。人間は自分の欲望だけでこの世に存在しているのではない。今まで繰り返してきましたが、人は自分の描く秩序と、関与できないもう一つの大きな秩序、遺伝子の力、種の圧力あるいは神のご計画の大きな秩序の二つの秩序の下で生きている。二重の拘束を受けています。
殺していいかどうかと問い掛けられれば、人は自分の倫理規範と同時に、共同体の一員としての倫理規範の二重の拘束を受けていることを説明すれば、正解が得られるのではないでしょうか。人間は小さい自分の倫理規範だけではなく、共同体の倫理規範も大切にしなければならない。いや優先しなければならない。アブラハムが自分ではなく神の秩序に従順だったように。個の尊重より公を重視せよ(改正教育基本法)という最近の風潮とは違ったことを言っている積りですが・・・・。アブラハムは草・木が自我ー草・木は自我もないかーに拘るのではなくて、大きな自然の秩序の下で当たり前に生きているように、すべて生きとし生きるものは大きな秩序を優先して生きるのが生きる道理であることをよく知っていました。人に譲ると言いながら、自分の考えることにしかより頼まない屈折した生き方とは違う。無理をしていないのです。
友人の弁護士T氏に「君の後輩でもあるU教授がたびたび手鏡でスカートの中を覗いて逮捕されているが、あんなことが罪になるの?趣味が悪いだけと違うの?」と尋ねてみたことがありました。私にはどうしてそういう衝動に駆られるのか全く理解できませんが、覗かれた本人は知らないわけですし、やる方も隠れて手鏡を悪用するだけだし・・・。しかし即座に「迷惑防止条例」で犯罪に決っていると教えてくれました。U教授も少年と同じように自我だけが肥大化させて、自我だけを拠りどころとして生きていけると錯覚し本来尊重すべき共同体の倫理規範を忘れてしまったのでしょう。生きている道理を見失ったのです。アブラハムが自覚したように、関与できないというのか、制御できない大きな秩序の中で人は生きており、人はその秩序に従うほかないことをしっかりと学ばなければなりません。
私たちは自我と大きな秩序の二重の拘束に気が付いた時、アブラハムのように即座に支配できない大きな秩序に従うことを選択しないで、どちらに従うか自問自答しているうちに、好むと好まざるに拘わらず、小さい自我、欲望に従って生きてしまうのでしょう。私たちは見えない上に、存在するかどうか判然としない、しかも何を語っているか聞けないものに従うという思考様式や行動様式を持っていません。
しかし人は自己の倫理規範と共同体の倫理規範の二つの拘束の下で生きていることに正しい洞察を持たなければなりません。
病気腎移植事件も同じことを語っているように思います。医療に携わりながら人工透析をしている人がこんなに健常な腎臓を望んでいることを知りませんでした。脳障害や心臓疾患、いやどんな病気にせよ、意識を失い意思表示ができない状況が生まれれば、医師がどんな楽観的な見通しを言おうとも、蘇生処置を望まない、自然の成り行きに任せて欲しいと私は遺言していますが、腎臓が使えるようであれば提供するということを付け加えました。
M医師は自分が正しいと信じることだけに基準を置き過ぎて、共同体の合意を得ることに対して配慮を欠いている。自分を信頼しすぎて、大きな秩序に思いを馳せないというのは私たちの共通の弱点を持っているように思います。M医師も万能ではありません。一人で善意に燃えて頑張り過ぎて、共同体の倫理規範から見ると問題があると考えられる過ちをしていたのかもしれない。少年と頭の構造が同じような気がします。
過ちを最小化するためにも、人はダブルバインドの下で生きており、いつも自分より他者に耳を傾けるべきであるという謙虚さが求められていると思います。社会から意見を求めるべきでした。
神や仏になれると信じているもの(麻原彰晃のようなオウム真理教の信者、本覚思想原理主義者等)や真理や道徳や客観的価値を信じないニヒリスト(イワン・カラマーゾフ等)はどんな倫理にも制約されません。すべてが許されています。U教授や少年はどちらに属する人たちなのでしょうか。いや私たちは少年を充分批判できなかったのですから、正気でありながら、狂信者や虚無主義者のように、欲望だけしか生きる拠り所がないのかもしれない。支配できない不可知な他者に耳を傾ける習慣を育てなければならないように思います。唯我独尊では新しい世紀は生きていけない。
共同体の中の規範を忘れて個の規範だけに頼る習慣を持っていますので、柔道、剣道そして相撲という個のスポーツを国技として育ててきたのでしょう。色々制約の多い集団スポーツを楽しむことをしなかった。現在は自分たちが作り上げた積りになって、集団スポーツである、野球、サッカー、ラグビーを楽しみますが。将棋や碁も同じことでしょう。個の能力を最大限に発揮して戦うのを喜びとしています。縛られるのが嫌いです。
個人主義が異様に発達して、弱肉強食が貫徹していると思われる恐ろしい国が、自分のやりたい事をがんじがらめに縛る集団スポーツである野球やアメリカンフットボールを国技としていることの意味を過小評価してはならないと思います。アメリカンフットボールなどはユダヤ人が考えたに違いない、と思えるオフェンスやデフェンスの役割分担を事細かに決める規範だらけのスポーツで、個人の能力を信じて戦いたいものには親しみ難い。攻撃も一人で突進できるのは稀です。フォーメイションといって多くのものがある指示の下で力を合わせて敵陣に攻めてやっとのことで得点できます。神の支配の下で皆が力を合わせて生きていくのをイメージして作り出したと思います。お陰で受験勉強の得意なものが入る大学でも一部リーグで活躍できるらしい。(一神教的思考様式を学ぶー創世記― 創世記 第2章 アブラハム物語 4.二重の拘束 何故人を殺していけないのか?(p90-94))
続く
病気腎移植 Ⅱ
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by rr4546
| 2011-02-07 14:51
| 医療関係
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